広報ふくさき 令和2年(2020年)6月号 13ページ ---------- 松岡五兄弟(井上通泰) 第50話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 神戸大学大学院人文学研究科 特命助教 井上舞 柳田國男・松岡家記念館の資料たちE 〜井上通泰宛与謝野寛書〜  今回は、与謝野寛(鉄幹)から井上通泰に宛てられた書簡を紹介していきます。  与謝野寛(1873−1935)は、明治から昭和にかけて活躍した、京都出身の歌人です。寛は若いころ、家庭の事情で各地を転々とし、上京後、歌人の落合直文に入門。彼が主催する浅香社に参加し、和歌の革新運動に関わりました。その後、自身で新詩社を創立し、雑誌『明星』を創刊。このころ、鳳晶子(与謝野晶子)と結婚。夫妻で歌人として活躍しました。  では、記念館に残されている書簡を見ていきましょう。まずは年代の特定から。  書簡には「七月五日」の日付が確認できます。年代は書かれておらず、封筒の消印もかすれて読み取ることができません。年代特定のヒントは、本文の「支那(当時の中国の呼び方)より六月十七日に帰り参り候」という一文。昭和3年(1928)の5月から6月にかけて、与謝野寛は南満州鉄道株式会社(略称・満鉄)の招待に応じ、妻晶子とともに中国各地を旅していました。帰国後、夫妻は旅中見聞きしたことや、詠んだ歌を『満蒙遊記』という本にまとめており、同書に東京に帰り着いたのは6月17日であったと記されています。このことから、書簡は帰国後間もない、昭和3年7月に書かれたものと判断できます。  それでは、書簡の内容を見ていきましょう。少し長いので、かいつまんで説明していきます。  まず前半は、帰国の連絡、そして帰国後に通泰から葉書が届いたことへの礼が述べられています。また、春以来出会っていないことから、一度会いたいと思っているものの、当時教授職にあった慶應義塾大学の仕事を長らく休んでいたため、授業をしなければならないこと、留守中に公私の用事がたくさん溜まっていることから、帰国後、なかなか挨拶に行けないことを謝っています。  次いで、話題は『万葉集新考』に移ります。本文には「(万葉集)新考の刊行も順調とのこと、何より学界のためにもめでたいことです」と記されています。同書は大正4年(1915)から昭和2年にかけて刊行された、通泰による『万葉集』の注釈・研究書です。ただ、この間刊行されたのは、通泰の弟子である正宗敦夫が自身の印刷所で印刷したもので、部数限定の非売品でした。昭和3年に公刊本が刊行されることになり、話題にしているのは公刊本のこととみられます。寛は公刊本の刊行を喜ぶとともに、このために通泰が多忙を極めているのではないかと案じ、体を大切にしてほしい、と記しています。  また、寛は旅行中、各地で講演を行った際に、『万葉集新考』や通泰の歌にも言及したと述べています。当時中国にあった「満州国」は日本が実態的に支配しており、現地には多くの日本人が居住していました。先の『満蒙遊記』によれば、寛は各地で講演会や短歌会に招かれていたようです。こうした場で、『万葉集新考』の公刊本が発刊され、一般の人にも手に入れやすくなることや、同書の著者である通泰が詠んだ歌について話していたのでしょう。  この書簡からは、親しげな様子がうかがえますが、実際のところ、通泰と寛が具体的にどのような交流があったのかは、まだよくわかっていません。今後、今回紹介した以外の書簡や、その他の関連資料を調査することによって、2人がどのような関係であったかが具体的に見えてくるはずです。 写真=井上通泰宛与謝野鉄幹書簡(昭和3年7月)(個人蔵)