広報ふくさき 令和2年(2020年)7月号 11ページ ---------- 松岡五兄弟(井上通泰)第51話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 神戸大学大学院人文学研究科 特命助教 井上舞 柳田國男・松岡家記念館の資料たちF 井上通泰宛三上参次書簡 今回は、播磨ゆかりの人物、三上参次からの書簡を紹介していきます。 三上参次は、松岡五兄弟とほぼ同じ時期に活躍した歴史学者です。慶応元年(1865)、神東郡御立村(現在の姫路市船津町)の幸田家に生まれ、幼少の頃に姫路藩士三上勝明の養子となりました。その後、進学のため上京。明治18年(1885)に東京大学文学部に入学。さらに大学院に進学して研究を続け、現在につながる日本歴史学の礎を築きました。 明治38年には史料編纂掛事務主任となり、史料編纂事業に従事。『大日本史料』や『大日本古文書』などの編纂に取り組みました。編纂にあたって、余計な解説や解釈を行わず、史料をそのまま採録するという方針は、三上の主張によるもので、両書とも編纂開始から100年を超えて刊行が続いており、現在も多くの研究者に利用されている重要な史料集です。 井上通泰と三上は1歳違い。出身も近く、学部は違っていても同じ大学に在籍していた者どうし、なにかと交流があったようです。通泰が記した「浪人大原左金吾の話」という文章には、三上は「同郷の竹馬の友人」と紹介され、通泰が探していた本が内閣文庫にあったのを見つけたので、書き写して岡山の赴任先まで送ってくれたエピソードが記されています。 それでは書簡を見ていきましょう。本紙の末尾に記された年月日から、この書簡は明治44年1月18日にしたためられたことがわかります。 書簡の内容は大きくふたつに分けることができます。まず前半部では、時候の挨拶や安否伺いを述べた後、短歌雑誌『心の花』を進呈するので、そこに掲載された自分の歌を見てほしいといった内容が書かれています。 次いで、後半部には次のような内容が書かれています。   また昨年12月には、ご同行していただき、ありがとうございます。その後、椿山荘公(山縣有朋)より、小松原文相(文部大臣・小松原英太郎)にその節のお話があり、文部大臣からも「懇ろに」とお話がありました。尚、お目にかかってお話ししましたら、要するにご尽力の結果を無駄にはしないと思います。   具体的な内容が書かれていないため、詳細は不明ですが、本文を読む限り、どうやら三上は、山縣有朋と懇意にしている通泰を頼って、山縣に何事かお願いをしに行ったようです。その後、山縣から文部大臣である小松原に働きかけていることを考えると、相談の内容は個人的なものではなく、かなり政治的なものではなかったかと推測されます。また、書簡を見る限り、事は三上の目論見通りに進んでいたようです。 ところで翌1月19日、新聞にある投書が掲載されました。内容は、日本史の教師用教科書で、南北朝時代に関して、南朝と北朝が並立していたように書いてあることを批判したものでした。(現在では並立していたというのが通説ですが、当時は南朝こそが正統で、並立などとんでもないと考える人たちも多かったのです。)投書をきっかけに、帝国議会では南北朝の正統性が議論され、政府は南朝が正統とする見解を示し、並立説を説いた教科書の執筆者は停職となりました。 先の書簡に関係する、三上参次・井上通泰・山縣有朋・小松原英太郎の4人も、さまざまな立場からこの事件に関わっていました。当時教科書の編纂委員を務めていた三上は、これがきっかけとなり、委員を辞職しています。 書簡をしたためた三上にせよ、受け取った通泰にせよ、その時には、ほんの少し先の未来で大騒動に巻き込まれるとは思ってもみなかったでしょう。 写真=井上通泰宛三上参次書簡(明治44年1月)(個人蔵)