広報ふくさき 令和2年(2020年)8月号 9ページ ---------- 松岡五兄弟(松岡 鼎)第52話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 神戸大学大学院人文学研究科 特命助教 井上舞 柳田國男・松岡家記念館の資料たちG 松岡鼎のノート 柳田國男・松岡家記念館に所蔵されている資料たち。今回は、松岡鼎に関する資料を紹介します。 松岡家の長男鼎は、明治11年(1878)に神戸師範学校を卒業し、地元田原にあった昌文小学校の校長となりましたが、数年でこれを辞し、明治15年に東京大学医学部別課に入学しています。 明治政府は医療の近代化を進めるべく、ドイツ医学を導入しました。そして、大学の医学部に将来の指導者を育てるための本課と、即戦力となる医者を養成するための別課を設置したのです。本課ではドイツ語を用いた授業が行われていましたが、別課では臨床に関わる科目を中心に、日本語で授業が行われていました。 この別課での講義をまとめた、鼎のノートが記念館に所蔵されています。一見、昔の本のように見えますが、これは当時市販されていたものだったようです。 ノートは40冊余りあり、表紙にはそれぞれ、担当教員の名前と、「眼科学」「産科学」「病理総論」など、各講義の名称が記されています。中身は罫紙(あらかじめ線が引いてある紙)に毛筆で、講義の内容が丁寧にまとめられています。また、文章だけでなく、解剖図などの図表も別の紙に写して挟み込んであります。今も昔も同じように、医師になるには膨大な知識と努力が必要です。鼎もまた、このノートを見返しながら、勉強に励んだものと思われます。 また、購入が難しい本については、借り受けて写し取ることもあったようです。『彪氏外科総論』という3冊の写本は、もとはドイツ人医師カール・フィステルの著作の翻訳書(「彪氏」というのは、「フィステル」の漢字表記「彪哲兒」によるものです)。冒頭には、明治17年5月の日付とともに、次のように書かれています。 私の家は貧しいので、本を買うことができない。よって友人の中原誠也君より原本を借り、時間のあるときに写したものである。後日幸いに望みを果たしたものの、願わくば当時の私の苦労と中原君の厚意を忘れないように コピー機もスキャナもカメラもない時代、本を買うことができないときは、こうして全て手書きで写していくしかありませんでした。こうした一文をわざわざ書き添えたという辺りに、鼎の医学部時代の苦労と、学問に対する真摯さをうかがい知ることができます。 ちなみに、本を貸してくれた中原誠也なる人物は、当時の名簿によれば鼎と同じく兵庫県出身で、鼎と同じ別課の先輩であったようです。 祖母小鶴や父操が医業を営んでいたといっても、それは江戸時代以前の医学であって、鼎が学んだ西洋医学とは全く異なるものでした。また、当然のことながら、医師となるために学ぶべき知識は、教員となるために学んだ知識とも異なっていたはずです。しかし鼎は、当時の学校としては最難関の、師範学校・東京大学医学部いずれにも合格しています。 鼎は他の兄弟と異なり、中央で活躍することはありませんでしたが、その経歴は決して他の兄弟に劣るものではありませんでした。そして、目標を成し遂げるために、日々不断の努力を続けていたことを、残された講義ノートや写本は教えてくれるのです。 写真=『彪氏外科総論』(個人蔵) 写真=『彪氏外科総論』冒頭(個人蔵) 写真=講義ノートの一部(個人蔵)