広報ふくさき 令和3年(2021年)6月号 13ページ ---------- 松岡ご兄弟 まつおか えいきゅう 第58話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 神戸大学大学院人文学研究科 特命助教 いのうえ まい  明治32年(1899)、私立いくぶんかん中学校を卒業したてるおは、画家への道を歩むべく、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)日本画科予備課程に入学。翌年、本科へと進みます。同校は、明治20年に創立された、美術教員や美術家を養成するための官立校で、年限は5年。絵画のほか、彫刻や美術工芸などの専修に分かれていました。  てるおが入学する少し前、同校では、後に「美術学校騒動」と呼ばれる騒動が起こっていました。校長・おかくら てんしんの辞職に抗議して、ほぼ全ての教官が辞表を提出。その後、説得により一部の教官は留任しましたが、てるおの最初の師であったはしもと がほうをはじめ、多くの教官たちが職を去りました。てるおが入学したときには、一応の決着はついていたものの、まだ学内には慌ただしい雰囲気が漂っていたのではないでしょうか。  ちなみに、当時てるおが師事していたやまな つらよしは、この騒動の後、明治31年に美術学校の教授に任ぜられています。もっとも、在籍中は、やまな つらよしに限らず、てらさき こうぎょう、あらき かんぽ、かわばた ぎょくしょうなど、さまざまな流派、画風を持つ教官たちから教えを受けています。特に、てらさき こうぎょうは受持教授として、2年次から卒業まで指導を受けました。寺崎は、特定の流派に固執せず、和漢の古名画を広く研究すること、また、写生を重視することを勧めていたといいます。  兄であるいのうえ みちやすややなぎた くにおが、学生時代から文芸活動を認められ、新聞等にもよく取り上げられていたのに対し、てるおはそうした目立った活動はしていなかったようです。とはいえ、学生時代は首席を通す、非常に優秀な学生だったようです。  てるおの在校中、先の騒動で退職していた、元美術学校助教授・こぼり ともとを中心に、「歴史風俗画会」という研究会が設立されました。てるおは、美校在学生代表として同会の創設委員に名を連ねています。  当時の日本画の画題は、歴史上の出来事の一場面などを描く、歴史画が中心でした。これを描くためには、その当時の歴史風俗―例えば、衣服や武具、装飾品、家具調度など―についての知識が必要不可欠でした。このため、画家たちは有志で集まって研究会を開き、歴史風俗について研究し、ときには博物館や寺社を訪れて現物を見たり、写生したりして、知識を蓄え、作品に反映させていったのです。  このころ、すでに父・みさおは亡くなっていました。てるお自身も、兄弟たちと比べて、自分はさほど父から学問を教わっていない、と語っています。とはいえ、古文や漢籍を読む能力は十分に備えていたはずです。こうした能力は、歴史風俗を学ぶのに大いに役立ったのではないでしょうか。  「歴史風俗画会」は、実のところ数回しか開催されませんでした。しかしてるおは、日 本画を守り、発展させていくにあたって、こうした研究会の重要性を十分に理解していたのでしょう。後に、美術学校の助教授となってからは、毎月自宅で「歴史風俗画研究会」を開催し、有志とともに研究に取り組んでいます。  このように、学生時代のてるおは、さまざまな流派の絵を学ぶかたわら、歴史風俗の研 究にも取り組み、画家としての素養を積んでいきました。それらの集大成となる卒業制作としててるおが描いたのが、「うらのしまこ」です。日本でよく知られた「浦島太郎」の物語の一場面ですが、てるおは人物の衣装や背景を中国風に描いており、日本だけでなく、 中国の資料についてもよく学んでいたことがうかがえます。  なお、兄・みちやすから「えいきゅう」という雅号をつけてもらったのも、美術学校在校時のことでした。