広報ふくさき 令和3年(2021年)8月号 10ページ ---------- 松岡五兄弟(松岡映丘)第60話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 神戸大学大学院人文学研究科 特命助教 いのうえまい 画家として、教育者として 大正5年(1916)5月、小説家・美術評論家で、美術雑誌『中央美術』を主宰していたたぐちきくていの呼びかけにより、ひとつの美術団体が結成されました。会員はきっかわれいか、ゆうきそめい、ひらふくひゃくすい、かぶらききよかた、そして最若手の松岡映丘(輝夫)の5名。「きんれいしゃ」と命名されたこの団体は、当時の美術界で大きな話題となりました。  明治以降、日本画界は大きな変化にさらされていました。伝統的な日本画を重視する人々がいる一方で、新時代の新しい画法を追求する人々もあり、東京と京都の画壇を中心にさまざまな団体が作られました。明治40年(1907)、初の官展である文展(文部省美術展覧会)が開催され、これが諸団体が一堂に会して出品、評価される場となるはずでした。しかし、各団体の思惑や審査員の偏りもあり、必ずしも平等な展覧会とはいえなかったようで、審査に不満を持つ画家たちも多かったのです。  先の5人もまた、きっかわれいかを除いて文展で入選を重ねていましたが、現状の文展のあり方に満足していたわけではありませんでした。きんれいしゃは、会員の互いの芸術を尊重し、自由な発表の場を設けることを目的として結成されましたが、その背景には、この活動を通して、旧態依然とした文展に一石を投じようという意図もあったようです。  こうして結成されたきんれいしゃですが、活動内容は自由かつゆるやかでした。会員のひとり、かぶらききよかたの随筆『続こしかたの記』によれば、会則などはなく、○時々集まって会合を開く、○年に1、2回、気ままな展覧会を開く、○時々学者を招いて講演会を開く、○各自の自由を妨げない、○一人でも止めようと言い出す者があれば、解散する、などの取り決めがあったようです。  きんれいしゃの5人は、それぞれ異なる立場、異なる画風から、自由に作品を作り、発表していきました。輝夫も、他の会員から刺激を受けながら、さまざまな作品を制作しています。(残念ながらきんれいしゃ時代の作品の多くは、関東大震災や戦災で焼失してしまい、あまり残っていません)。その後、大正11年の第7回展覧会をもって、きんれいしゃは解散しますが、このときの経験は、以降の輝夫の画風や、日本画界でのさまざまな活動に大きな影響を与えたものと思われます。  こうして、日本画界の変革にもたずさわる一方で、輝夫は後進の育成にも力を注ぎました。  大正七年、輝夫は東京美術学校の教授に任ぜられます。これと期を同じくして、輝夫は学生たちに呼びかけて、絵を描くために必要な学問―歴史・文学・有職故実・風俗など―のための研究会を開いています。当初、学内で行われていたこの会は、後に、「とこなつそう」と呼ばれた輝夫の自宅に会場を移し、これにちなんで「とこなつかい」と命名されました。この会には輝夫の教え子以外の学生たちも参加し、当時は珍しかった女性の姿もありました。  美術学校内でも、輝夫の担当するクラスは人気で、優秀な学生が、みんな輝夫のところに行ってしまう、と他の教授たちがため息をついたといいます。このころ、輝夫のもとで学んだ学生の中には、やまぐちほうしゅんをはじめとして、次代の日本画界を支えた画家となった若者も少なくありませんでした。  ところで柳田國男は「郷土研究会」をはじめ、さまざまな勉強会を主宰していました。 また、通泰は「なんてんそうどうじんかい」を主宰して歌や古典の指導にあたり、静雄も自宅を「ささらのや」と名付け、ここに多くの若者を招き、共に学んでいました。自分ひとりで学ぶのではなく、仲間と研鑽を重ね、後進を育てる。松岡兄弟の「学び」に対する姿勢は、末弟輝夫にも受け継がれていたのです。 写真=「はすいけ」画稿 (柳田國男・松岡家記念館蔵)