広報ふくさき 令和4年(2022年)6月号 14ページ ---------- 松岡五兄弟 やなぎた くにお 第65話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 松岡家と三木家の関係@ 神戸大学大学院人文学研究科 特命助教 いのうえ まい  柳田國男は幼いころに、辻川の三木家に預けられ、ここで一年ほどを過ごしています。  代々の当主が学問を好んだ三木家には、さまざまな蔵書がありました。これを読みふけり、さまざまな知識を得たことが、後の國男の学問スタイルに影響を与えたことはよく知られたエピソードです。  また同家には國男と同年輩で、後に九代当主となった三木拙二がいました。國男が三木家に預けられていたころ、拙二はちょうど神戸の学校に通うため家を離れていました。このため幼いころのふたりにはあまり接点がなかったようですが、國男は拙二のことを「竹馬の友」と呼び、その交流は生涯続きました。  『故郷七十年』にはたびたび拙二の名前が見え、また辻川に帰った折には「三木拙二氏の宅にゆく以外にない」とも語っています。國男にとって三木家は自分と故郷をつないでくれる大切な場所でした。  一方で、國男は幼い自分が三木家に預けられたことを不思議に思っていたようです。  國男の記憶によれば、父の操は三木家の蔵書のことを知っていたけれども、同家の集まりにはめったに参加することはなく、母親も「多分一生の間しみじみとあいさつをしたこともなかった」といいます。また、祖母の小鶴についても、三木家の七代当主・通深と書簡で論争したことは知っていましたが、「祖母はもちろん大庄屋さんの若いご夫婦とは一度も対面しなかったのであろう」と考えていました。よって、日ごろの交流はなかったものの、「多分学問への大きな愛情と、つぎには主人の判断を重視した、前々からの家風」によって、自分を預かってくれたのだろうと推測しています。(『故郷七十年』「南望篇」)。  右の推測は、意味がわかりづらいところもあるのですが、國男を引き取った背景に「学問への大きな愛情」があったことは確かなように思えます。國男がこのことをよく知っていたかどうかはわかりませんが、三木家と松岡家は、以前から学問を通じた交流がありました。  松岡五兄弟の曽祖父、左仲は、周辺地域の文化人らとともに、三木家五代当主・通庸が主催した漢詩を読む会に参加しています。  左仲の娘である小鶴についても、近年三木家の壁の下張りから発見された多数の書簡の調査を通して、通深と詩作や学問について細かなやりとりをしていたこと、三木家からしばしば書物を借りていたことなどが明らかになってきました。  こうした数代にわたる学問的交流があったからこそ、三木家は國男を受け入れたのでしょう。  また、『故郷七十年』の記述によって、國男と拙二との関係についてはよく知られています。とはいえ、これは年の近いふたりの個人的な関係にとどまるものではなく、実際には松岡家の兄弟達は全員、晩年まで三木家と交流を持ち続けていました。  昨年度、福崎町と神戸大学大学院人文学研究科地域連携センターとの連携事業において、三木家に残されていた松岡家関係書簡の再調査を行いました。また、既調査の書簡に加え、多くの新出資料が発見されました。これらを調査することで、國男と拙二だけではなく、松岡家と三木家の関係がより具体的にわかってくるはずです。  今年度の「松岡五兄弟」は、これらの書簡調査の成果をご紹介していきたいと思います。どうぞお楽しみに。 写真=三木拙二宛松岡映丘葉書(贈り物に対する礼状) 写真=三木拙二宛柳田國男葉書(三木家に立ち寄ったが、拙二が不在で残念だった、などと書かれています)