広報ふくさき 令和4年(2022年)7月号 18ページ ---------- 松岡五兄弟 やなぎた くにお 第66話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 松岡家と三木家の関係A 神戸大学大学院人文学研究科 特命助教 いのうえ まい 大庄屋三木家の9代目・みき せつじ(つうしょう)は明治6年(1873)の生まれ。8代・つうさいの跡を継ぎ、辻川郵便局を建設したり、村会議員になったりと、三木家が大庄屋であった江戸時代のころと変わらず、地域の名望家として、辻川の近代的発展に尽力した人物です。柳田國男とは2歳違いで、國男はせつじを「竹馬の友」と呼び、晩年まで親しい付き合いを重ねていました。  三木家には、國男からせつじに宛てた葉書が多数残されており、ここからふたりの関係性を読み取ることができます。今回は、晩年に、國男がせつじに宛てた葉書を2点、紹介します。  1点目は、昭和30年(1955)8月4日付けの葉書です。上部に印刷された写真の人物は國男本人。このように國男は自身の近影を入れた葉書を何枚も作っていました。  1点目の内容ですが、冒頭では今年の夏はとりわけ暑さが厳しいが、健やかにお過ごしだろうか。自分も少し弱っている、などと近況を伝えています。そして、新作の電気あんま器を試してみたところ、具合が良かったので、お試しのためにせつじ宛てに送らせた。寝る前などに試して欲しい。疲れが取れて、1回ぐらいは目覚めが少なくなるのではないか。などと書かれています。  このとき、ふたりはすでに80歳を過ぎていました。眠りが浅くなり、何度も途中で目を覚ましていたのかもしれません。互いに年を重ねた竹馬の友の体を気遣う、けれど、少しユーモラスな内容になっています。  2点目は昭和33年1月13日付の葉書。せつじからの贈り物を受け取ったこと、そのお礼が述べられています。このとき、せつじの妹たちと写した写真も同送してもらったようで、「七十何年もの昔を想起しなつかしさに堪へず」と書かれています。さらに文末には、「こんなに年が立つたらもう一度も二度も故郷にかへれたのにと残念に存じ候」とあります。(この一文は、葉書の1行目に書かれていますが、これは紙面を最後まで書き切ると、冒頭に戻って空いたスペースに書き足していくという、当時の手紙の書き方によるものです。)  ところで前年の12月より、國男のもとを、ジャーナリストのかじ りゅういちと、神戸新聞の記者・みやざき しゅうじろうが訪れ、昔の話を聞き取っています。聞き取った内容は、文字に起こしてまとめられ、『神戸新聞』紙上に「故郷七十年」として連載されることになっていました。  連載が始まったのは翌年1月9日のこと。この葉書が投函される数日前のことでした。もしかしたら、記事を見たせつじから、何らかの連絡をもらっていたのかもしれません。  ちなみに、現在刊行されている『柳田國男全集』の別巻1に、國男の詳細な年譜が記されています。この年譜のうち、昭和33年1月15日条に、次のような記述があります。 この日付け(注・1月15日)の「故郷七十年」六回目の新聞が送られてきて、三木家の外壁の漆喰が剥がれ落ちている写真を見て、「こんな写真を使って」と叱る。  三木家は國男にとっても思い出深い場所。その家の外壁が剥がれた惨めな姿が多くの読者に晒されることを、國男は良しとしなかったのでしょう。あるいは、写真を見たときのせつじの気持ちを慮ったのかもしれません。 写真=みきせつじ宛柳田國男葉書(昭和30年) 写真=みきせつじ宛柳田國男葉書(昭和33年1月13日)