広報ふくさき 令和4年(2022年)8月号 16ページ ---------- 松岡五兄弟 いのうえ みちやす 第67話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 松岡家と三木家の関係B 国立民族学博物館共同利用型科学分析室プロジェクト研究員 いのうえ まい 松岡家の三男で、よしたの井上家の養子となったみちやすは、十五歳のころにはすでに進学のために上京していました。しかし、学生のころは数年おきに帰省していましたし、眼科医となってからは姫路病院に赴任していた時期もありました。  また、在京の播州人の集まりである「ばんしゅうかい」や、播磨の郷土史の調査団体である「はりましだんかい」にも関わっており、他の兄弟よりも播磨との縁が深かった人物といえます。  そんなみちやすもまた、三木家と頻繁に手紙のやりとりをしていました。今回はみちやすから三木家に宛てられた手紙を紹介していきます。  みちやすからの手紙の中で多いのは、贈り物に対する礼状です。みょうちんひばしや真綿、蒸し鯛、穴子、奈良漬など、三木せつじは様々なものを贈っていたようです。手書きの礼状は型どおりの文体ではなく、好物の穴子を贈ってくれたことのお礼や、手作りの奈良漬けの風味が素晴らしく感服した、など、率直な感想が綴られています。  一方で、みちやすから三木家に何かを贈ることもあったようです。@の手紙は昭和11年(1936)のもので、皇太后(大正天皇の皇后・ていめい皇太后)に拝謁した際に、いつものようにお菓子を頂いたので、それを送ると書かれています。  またみちやすは晩年、風土記の調査や各地に住まう門人たちと交流するため、様々な場所に出かけています。このとき福崎に立ち寄ることもあったようです。  Aの葉書は、昭和7年5月の旅行の予定を印刷したもので、福崎で一泊した後、和歌山の和歌浦や京都、奈良をめぐる6日間の予定が組まれています。三木家にも立ち寄るつもりで予定を伝えたのかもしれません。  余談ですが、このころ、播但線の福崎姫路間は30から40分ほどかかっていたようです。今よりだいぶ遅いですね。  最後に紹介するのは、悔やみ状です。日付は明治34年(1901)3月4日。手紙の中で「ごれいげん」(他人の父を敬って使う言葉)が用いられています。封筒の上書きは 「三木しょうたろう様」となっていますが、年代と内容から、この年亡くなったしょうたろうに対する悔やみ状であることがわかります。  手紙には、幼いころから見知ってもらっていたこと。自分が在郷中に読んだ本はほとんどが三木家所蔵のもので、自分の学問の半分は(本を読ませてくれた)しょうたろうのおかげ、などと書いてあります。  みちやすが三木家の蔵書を読んだのが、松岡家にいたころなのか、井上家に養子に行ったあとのことなのかはわかりません。ただ、この手紙からは、当時の当主のしょうたろうが、くにおに限らず、蔵書を広く人々に読ませていたことがうかがえます。しょうたろうの父・三木つうしんのところにも、多くの知識人たちから蔵書を貸して欲しいという依頼があったことがわかっています。こうした家風は次代に受け継がれ、それが柳田くにおや井上みちやすなど、優れた人物を生み出す一助となったのです。 写真@=三木せつじ宛井上みちやす書簡(昭和11年) 写真A=三木せつじ宛井上みちやす書簡(昭和7年5月) 写真=三木家宛井上みちやす書簡(明治34年3月4日)