広報ふくさき 令和4年(2022年)10月号 15ページ ---------- 松岡五兄弟(いのうえみちやす)第68話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 松岡家と三木家の関係C ー井上通泰から三木家への手紙2ー 国立民族学博物館共同利用型科学分析室プロジェクト研究員 いのうえ まい  前回に続いて、今回も井上通泰からの手紙を紹介していきましょう。  通泰は眼科医となった後、兵庫県立姫路病院(現・姫路赤十字病院)の副院長や、第三高等学校医学部(後、旧制岡山医学専門学校。現・岡山大学医学部)教授を歴任しました。そして明治35年(1902)、岡山医専を辞職した通泰は、上京し開業しました。  このとき、三木拙二に宛てられた通知が残っています。裏面の文章は印刷で、今度(岡山医専を)辞職して上京すること、住所が決まれば改めて連絡すること、それまでに連絡の要があった場合の連絡先について知らせています。ただ、色々と混乱があったのでしょうか。印刷された文面には、通泰の友人である かこ つるど の住所が書かれていますが、これを消して、手書きで別人の住所を記しています。  もうひとつ、住所変更通知の葉書を紹介しましょう。  こちらも文面は印刷です。「恭賀新年」とあるので、一応、年賀状ではあるのでしょうが、紙面のほとんどが連絡先の通知と、診察所の案内に費やされています。消印が読みとれないのですが、「罹災以来」と書かれていることから、大正12年(1923)9月1日の関東大震災以降、大正13年か14年頃の年賀状と判断できます。  関東大震災で、通泰は自宅と蔵書を失い、知人の自宅に身を寄せることになりました。葉書には震災以降住所がしばしば変わっており、その通知漏れがあるかもしれないので、(新年の挨拶にあわせて)現住所を知らせると書かれています。  この葉書によれば、通泰は自宅と診療所を分けていて、人との面会なども診療所を利用していたようです。ただ、診療所に留守番がいないため、不在の折は電話が通じないこと、診療所宛の郵便が紛失・延着の恐れがあることから、郵便物は自宅宛に送って欲しいと、事細かに書かれています。  ちなみに診療所には、日曜・祝日と年始五日間を除き、毎日午前9時から午後3時まで出勤しているともあり、通泰が被災後も精力的に活動を続けていたことがうかがえます。  最後に紹介するのは、昭和11年(1936)12月6日付の葉書です。  どうやら前日、三木拙二は井上通泰のもとを訪れていたようです。葉書の書き出しは、前日の訪問の御礼から始まっています。次いで「こうでら君」が、姫路で田島藍水という人物から漢学を教わっていたことを思い出した、と伝えています。ここに登場する「国府寺君」とは、三木家の縁戚にあたる姫路のこうでら家の人物ではないかと考えられます。おそらく、前日の面談時に話題に出て、そのときは思い出せなかったことを、すぐさま葉書にしたためて送ったのでしょう。  松岡五兄弟と三木拙二との間に交わされた手紙を見ると、松岡家の兄弟たちが、帰郷の際しばしば三木家を訪れる一方で、拙二も上京した折に、兄弟たちと出会っていたことがわかります。手紙のやりとりだけでなく、こうした細やかな交流の積み重ねが、松岡五兄弟と播磨との縁を結び続けていたのです。 ◆大庄屋三木家住宅では、10月29日(土曜日)から、特別展示「松岡五兄弟からの手紙」を開催します。広報ふくさきで紹介された葉書や手紙を展示します。また、松岡五兄弟と三木家にまつわる手紙の話もご講演いただきます。 三木家入門講座E「松岡五兄弟の手紙を読む」 日時 11月5日(土曜日)午後1時30分から午後3時 場所 三木家住宅主屋 講師 いのうえ まい さん 受講料 無料(申込不要)