広報ふくさき 令和4年(2022年)11月号 13ページ ---------- 松岡五兄弟(松岡 鼎)第69話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 国立民族学博物館共同利用型科学分析室プロジェクト研究員 いのうえ まい 松岡家と三木家の関係D 松岡鼎の帰郷  松岡五兄弟の長兄・鼎は、他の兄弟たちよりも多くの時間を播磨で過ごしました。  二十三歳のときに上京し、七十五歳で亡くなるまで、人生の大半を関東で暮らした鼎ですが、故郷播磨のことはいつも気にかけていたようです。しかし、何かと多忙だったようで、帰郷したのは、記録に残っている限りでは、大正9年(一九二〇)と、同12年の2回だけでした。  大正12年の帰省の際、鼎が三木拙二に宛てた1月9日付の手紙が残っています。  内容ですが、まず、墓参りのために帰国した際に、もてなしてもらったことへのお礼がしたためられています。他の兄弟たちと同じように、このときも拙二は、鼎を手厚くもてなしたのでしょう。  そして、出発後鳥羽港に一泊し、伊勢神宮に参宮し、1月6日午前11時に帰宅したと書かれています。また、すぐにお礼を申し上げなければいけないのに、煩わしい用事がたくさんあって、お礼が遅れたと謝っています。 写真=三木家宛松岡鼎書簡 ところで、このときは弟の通泰も一緒に帰郷しており、1月6日付の通泰の礼状が残っています。  こちらは一部が破れているため、全文を知ることはできません。それでも、(おそらく拙二が)姫路まで見送ってくれたこと、鼎とは大阪で別行動をとったらしいこと、しかしふたりとも6日の朝にそれぞれ帰宅したことなどが読み取れます。  ちなみに『柳田國男全集』別巻1の年譜によれば、このとき鼎と通泰は、 川だけでなく、祖父真継陶庵の墓がある生野の本行寺も訪れ、住職と話をしたとあります。 写真=三木拙二宛井上通泰書簡 ふたりは年も近く、両親が亡くなったときにはすでに働いていたこともあり、互いに協力しながら下の3人の弟たち(國男・静雄・輝夫)の成長を支えました。そんなふたりの道中には、どんな会話があったのでしょうか。  最後に紹介するのは、昭和5年(一九三〇)2月14日付の葉書です。冒頭では、「国産の珍品」を送ってもらったことへのお礼を述べています。そして、自分が古希(70歳) を迎えるので、4月頃に「社参展墓」(氏神である鈴の森神社に参詣し、また先祖の墓に詣ること)のため帰国の予定である、とあります。  鼎は医院を営む一方で、地方行政にも力を尽くし、昭和2年から一期2年間だけ布佐町長を務めました。また、この葉書を出した直後の3月に、郡医師会と学校衛生会長も退職しています。古希を目前に、これまで請け負ってきたさまざまな職も辞して、ゆっくりと故郷への旅を楽しむつもりだったのかもしれません。しかし、このときの帰省については、残念ながら記録が残っておらず、実現したかどうかはわかっていません。  柳田國男は「おさな名を人に呼ばるるふるさとは昔にかへるここちこそすれ」という歌を詠んでいます。「一生播州のアクセントと国訛りの抜けなかった」鼎もまた、帰郷して拙二や辻川の人たちと会話をする中で、手紙のやりとりとは異なる、「昔にかへるここち」を感じていたかもしれません。 写真=三木拙二宛松岡鼎葉書 写真=松岡家墓所(悟真院)