広報ふくさき 令和4年(2022年)12月号 13ページ ---------- 松岡五兄弟(まつおか かなえ)第70話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 松岡家と三木家の関係E 松岡鼎から三木家への手紙 国立民族学博物館共同利用型科学分析室プロジェクト研究員 いのうえ まい 今回は、松岡五兄弟の長兄・まつおか かなえ からの手紙を二通紹介します。  一通目は、鼎がまだ医学生であったころの葉書です。  明治14年(1881)、鼎は医者となるため上京。東京大学医学部別課に入学します。この葉書は明治15年12月18日付で、当時の三木家当主・みき しょうたろう 宛に出されたものです。当時の葉書は今よりも一回り小さいのですが、そこに小さな文字でびっしりと、さまざまな内容が記されています。  冒頭では、自分は変わらず勉学に励んでいること、多用のためあまり連絡をしなかったことについて謝罪しています。次いで、「斎藤」「たかとう」「亀井」という人物の近況を伝えています。ここに登場する人々がどのような人物であったのかは定かでありませんが、文面からして共通の知人であったようです。  さらに話題は、東京の様子に移ります。とはいっても、東京は「かくべつちんじもこれな」かったようで、ただ、寒くなるにつれて火事が増えたと伝えています。「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉を意識したのでしょうか、火事のことを「東京名産ノいちナル」と修飾しています。ほかにも、政治の話や、文化人が死去したこと、上野公園で開催された「日本絵画共進会」を見に行ったものの、あまり面白いものはなかったなどと書いています。  そして おおぬま ちんざん という、当時活躍していた漢詩人の話題に触れ、沈山の詩を求める場合に、紙のサイズによって値段が変わること、詩を書いてもらう素材が紙の場合は鼎のほうで賄えるが、絹地の場合は三木家から送ってもらう必要があることなどを記しています。三木家は五代 つうよう 以降、特に学問を好み、書籍や書画などを収集していましたが、その傾向は八代承太郎にも受け継がれていたのでしょう。  最後に「おか」「田崎」の両君や、承太郎の母、そして拙二にもよろしくと伝えています。  さらに末尾(一行目)には、現在試験中であること、期間は(12月)8日から25日までで「そのにっすうのながきに閉口」と締めくくられています。  たった1枚ではありますが、この葉書からは、鼎が医者修行に励んでいたと同時に、関東の様子を詳細に三木家に伝えていたこと、ときには在京の文化人との仲介を請け負っていたことなどがうかがえます。  二通目は、大正12年(1923)12月21日付の、三木拙二宛の手紙です。  この年の9月1日、関東大震災の発生により、関東地方は甚大な被害を受けました。鼎も葉書の中で、この災害を「しんこみぞうのへんさい」と表現しています。もっとも、一族の間で多少の被害はあったものの、鼎自身は何事もなかったようで、元気で業務に従事していると伝えています。  また、多くの「佳品」を贈られたことへの礼を述べつつ、晩夏のころに届いた品や神社の写真のお礼を、震災の混乱で失念していたようなので、改めてお礼を申し上げたいと書いています。さらに、自分が住まう土地は何もない場所ではあるけれども、上京の際には是非自分の家に立ち寄って欲しい、皆でお待ちしている、と伝えています。  そして最後に、てがぬま産の鴨をひとつがい、別便で送ったので、晩酌のお供にしてほしい、と述べて締めくくられています。手賀沼の鴨は、古くから当地の名産でした。  鼎から三木家に宛てた手紙には、年上の承太郎宛でも、年下の拙二宛でも、変わらぬ丁寧な挨拶やお礼の言葉が連ねられています。また、礼節ある内容に加え、本文には難しい熟語を多用していますが、使い方も正確で、非常に豊かな語彙力を持っていたことがうかがえます。松岡家の長兄、鼎の性格が垣間見えるようです。 写真=三木拙二宛松岡鼎葉書(明治15年12月18日付) 写真=三木拙二宛松岡鼎書簡(大正12年12月21日付)