広報ふくさき 令和5年(2023年)1月号 9ページ ----- 松岡五兄弟(まつおか しずお)第71話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 松岡家と三木家の関係F まつおか しずおから みき せつじ への手紙 国立民族学博物館共同利用型科学分析室プロジェクト研究員 いのうえ まい -----  今回は、松岡静雄からの手紙を紹介していきます。といっても、実は、静雄から三木家に宛てられた手紙はほとんど残っていません。  松岡五兄弟から三木家に宛てられた手紙は、250点近くありますが、静雄からの手紙はわずか9点。もちろん、他の兄弟のものも含め、送った手紙がすべて残っているわけではないでしょうが、それを考慮しても非常に少ないと言わざるを得ません。  後で紹介するように、静雄が輝夫(映丘)に依頼し、自分の希望を三木拙二に伝えた手紙が残っています。そこには「(静雄は)幼いころに会って以来、便りもせず」といった内容が書かれており、日頃あまり交流はなかったようです。もっとも、疎遠であったのは静雄が海軍軍人であり、ときには長期にわたって日本を離れていたことも関係しているように思われます。  さて、そんな静雄からの手紙をみていきましょう。今回紹介するのは大正4年(1915)の手紙です。  この手紙について紹介するには、少し前提を説明しておく必要があります。前年に始まった第一次世界大戦に従軍していた静雄は、南洋諸島の占領作戦に参加し、現地統治のための防備隊参謀長となっていましたが、「神経衰弱」と診断され、横須賀鎮守府に転任となります。その際、休暇を利用し、生まれ故郷の辻川に帰ろうと思い立ったようです。これまで紹介してきたように、兄弟たちは辻川に帰った際は、三木家の世話になっていました。静雄もまた拙二に宛てて帰郷の連絡を入れます。ただ、第一報は静雄自身ではなく、弟の輝夫に手紙を書かせています。  輝夫の手紙には、静雄が墓参りをするだけでなく、自身が見聞きした欧州の様子や、南洋諸島についての講話をしたいので、地元の有力者を集めてほしいと希望している、と書かれていました。これに対し、拙二は輝夫に対して何らかの返信をしたのでしょう。返信はやがて、揖保郡龍野町(現たつの市)の知人、中原氏のところに逗留していた静雄のもとに届きます。  これを受けて、静雄自身が拙二に送った手紙が、@の手紙になります。  手紙にはまず、輝夫からの手紙には誤解があるようなので自分が事情を説明する、とあります。次いで、自分は何度か墓参りのために帰国したことはあるが、いつも時間がなく、辻川の人たちを訪問する機会がなかったこと。今回はいつもより時間はあるとはいえ、個別に訪問することは難しいため、人々に一か所に集まってもらえれば、一度に会うことができること。その際、希望があれば雑話はするつもりだったが、講演のような大層なことは考えていない。といった内容がつらつらと書かれています。  また、手紙の末尾では、播州での滞在予定の日数も尽きてきたので、今回は辻川の人たちとの面談はあきらめること。墓参りをした後はすぐに出立するが、今回のことで迷惑をかけたので、三木家の門前に挨拶にだけはうかがいたい。と述べています。  静雄の言い分と輝夫が伝えた内容、いずれが正しかったのかはわかりません。ただ、先の手紙の通り、三木家に立ち寄ったのは確かなようで、三木家には、同年2月21日付の静雄からの礼状(A)が残っています。