広報ふくさき 令和5年(2023年)3月号 15ページ ---------- 福崎町文化財だより(83) 3ページ目 ---------- 松岡五兄弟 第72話 松岡えいきゅう 柳田國男 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう   手紙から見えてきた松岡家と三木家の関係 神戸大学大学院人文学研究科 特命講師 いのうえ まい 令和2年度に、松岡家から三木家へ宛てられた手紙類が福崎町に寄贈されて以降、福崎町と神戸大学大学院人文学研究科地域連携センターでは、これらの手紙の調査を続けてきました。その成果については、令和4年度の三木家の特別展示や、この「松岡五兄弟」などで紹介してきました。  今回は、この2年間の調査でわかってきたことを、まとめてお伝えします。  ひとつは、五兄弟と三木家との関係です。これまで両者の関係は、「竹馬の友」である柳田国男と、三木拙二との交流ばかりが取り上げられてきました。両家をつなぐ資料は少なく、『故郷七十年』にも國男以外の兄弟と、拙二との関係は、ほとんど記されていませんでした。  しかし、手紙を調査することによって、國男だけでなく、他の兄弟も國男と同等の付き合いを重ねていたことがわかってきました。互いに、さまざまな品物を贈りあっているほか、兄弟たちが 川に帰った際には、三木家に挨拶に行き、三木家でも兄弟たちをさまざまにもてなしていたようです。  なかでも注目すべきは、松岡輝夫(映丘)との関係です。拙二は何かにつけて蒸し鯛や松茸などを送っていたことが、輝夫の礼状からうかがえます。そして、輝夫も拙二の依頼を受けて、何枚もの絵を描いていたようです。  また、@の葉書からは、輝夫が仕事で京都に出向いた際に、拙二と会う約束をしていたことがわかります。このほか、輝夫がヨーロッパ出張のため神戸港から出港した際には、神戸まで見送りにも出向いており、深い付き合いがあったことをうかがわせます。  もうひとつは、拙二の行動です。兄弟たちからの手紙をみると、拙二もまたしばしば上京し、兄弟たちのもとを訪れていたことがわかります。そればかりか、ときには五兄弟の集まりに顔を出すこともあったようです。  Aは輝夫が拙二に宛てた葉書です。兄弟会を開催する予定であったが、國男の都合が悪いために延期するという内容が書かれています。松岡家の五兄弟は、それぞれ別の道を進みつつも、長兄の鼎を中心に、互いに助け合う関係を生涯持ち続けていました。そうした兄弟たちの会合に招かれるあたり、単なる家同士の付き合いを越えた交流の深さがうかがえます。 もうひとつは、國男についてです。拙二に宛てた手紙には、もてなしを受けたことへのお礼、あるいは近くまで来たのに立ち寄れなかったお詫びの手紙が多く残っていました。  國男は他の兄弟より頻繁に 川に帰郷していたようですが、今回調査した手紙からは、これまで確認されていない帰郷の情報もありました。また、贈り物のやりとりや、昔のことを懐かしむような文面からは「竹馬の友」であるふたりの交流の様子が、より具体的にわかってきました。  松岡五兄弟から三木家に宛てられた手紙の調査は、現在も継続中です。また、五兄弟からの手紙のほかに、三木拙二が出した手紙の手控えも見つかっています。これを調査することによって、拙二が兄弟たちにどのような手紙を送っていたのかもわかってくるはずです。  次年度以降も、引き続き松岡五兄弟についての調査を続け、その成果を広報や展示でご報告していきたいと思います。 写真=@三木拙二宛松岡映丘葉書 写真=A三木拙二宛松岡映丘葉書 写真=B三木拙二宛柳田國男葉書