広報ふくさき 令和2年(2020年)10月号 13ページ ---------- 松岡五兄弟(松岡 鼎)第53話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 神戸大学大学院人文学研究科 特命助教 井上舞 松岡こつるの書簡@  地域に残された歴史資料の中に、「下張り文書」と呼ばれるものがあります。 古い日本家屋の襖や壁の内側には、補強や保温、吸湿のための紙(下張り)が貼られています。昔は紙が貴重だったため、下張りには新しい紙ではなく、不要になった文書などが使われていました。当時の人びとにとっては不要となった紙であっても、現在の私たちにとっては、地域の歴史を知るための、とても貴重な資料となります。 令和元年(2019)10月、大庄屋三木家住宅の副屋・離れで行った緊急調査で、大量の下張り文書が発見されました。約40枚の襖や部屋の壁には、江戸時代前期から明治時代にかけての、様々な種類の文書が下張りに使われていました。その中で発見されたのが、柳田國男の祖母松岡こつるから、三木家七代目当主つうしんに宛てられた書簡です。 こつるの書簡は、三木家住宅の副屋のうち「かみのま」と呼ばれる部屋の壁から見つかりました。下張りとして使用されたために、前後が切断されて内容がわかりにくいものもありますが、調査の結果、35点の書簡を確認することができました。 いずれの書簡も、漢字仮名交じり文で書かれ、難しい熟語を多用した難解な文体となっています。クセの強い字で、間違えたところを墨で塗りつぶして書き直しているところや、行間に小さく追記した箇所も多く見られます。(だから、とても読みにくい…)当時の女性の手紙としては異色の書きぶりといえます。 また、差出名は「ふみ母」「けんじ母」(「ふみ」と「けんじ」はみさおの別名)と書かれたものが多く、そのほか、松岡家の「松」を分解して「十八公女」と記しているものもありました。 内容については、現在分析を進めているところですが、全体的に言葉の意味や使い方、三木家から借用した書物の内容について尋ねたものが多いようです。これまで、こつるの書簡や漢詩文については、息子の操が編纂した『こつる女史詩稿』に収められたものと、つうしんがこつると往復した書簡をまとめた『せいひょうぶんそう』の存在が知られていました。今回発見された書簡は、これらの資料に収められた書簡の内容とは異なっていることがわかっています。今後、調査を進めていくことで、松岡こつる自身や松岡家の学問、さらには三木家との関係について、新しい発見が期待されます。 ところで柳田國男は『故郷七十年』で三木家での生活について触れるなかで、「それよりももっと心残りなのは、若死をせられた先々代の主人(注・三木つうしん)の日記なり、書留められたものの中から、松岡こつると往復された漢文の原稿でも見出せなかったものか。」と語っています(「南望編」)。今回発見された書簡は、漢文の原稿ではありませんが、こつるとつうしんとが頻繁に学問的な内容の書簡を交わしていたことが知れる貴重な資料です。しばしばこのふたりの関係について語っていた柳田國男が、今回の発見を知ったら、「ぜひ見たい!」と言ったかもしれませんね。