広報ふくさき 令和2年(2020年)12月号 10ページ ---------- 松岡五兄弟(松岡こつる)第54話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう   松岡こつるの書簡B  神戸大学大学院人文学研究科 特命助教 井上舞 ここまで2回にわたって、新たに発見された松岡こつるの書簡について紹介してきました。今回は、書簡からうかがえるこつるの人物像について考えてみたいと思います。 書簡は基本的に他人に宛てて出すものなので、そこから人物像の全てを明らかにすることは難しいかもしれません。ただ、下張りから見つかった書簡や、『こつる女史詩稿』に収められた書簡を確認してみると、その書きぶりには一定の傾向が読み取れます。 まず、読み取れるのは、こつるの自己評価の低さです。残された書簡の多くには、 ・私には才能がないから文章の意味を理解することができません ・私の作った文章は意味がわからず、字も汚いです ・私は頑固で偏屈なので、優れたご意見をいただくのにふさわしくありません ・私は正式に学問を学んだことがないので といった言葉が連ねられています。こつるが日ごろ心身に不調を抱えていたこと、謙遜が多分に含まれていることを差し引いても、あまりにネガティブな書き方です。 その一方で、質問したいこと、頼みたいことに関しては、ぐいぐいと相手に迫っています。例えば先月号で紹介した、「ナメクジの美語について教えてほしい」といった、言葉の意味や出典を尋ねたもの。このほか、本の借用や、詩の添削の依頼など、かなり積極的に質問や依頼をぶつけています。 こうした二面性のある書簡の背景には何があるのでしょうか。理由のひとつとして考えられるのが、ひとり息子の ふみ(後の松岡みさお)の存在です。 先に紹介したように、正式な学問を受けていないというのは、こつる にとってかなりのコンプレックスだったようです。夫の いたる も、父の ぎすけ も学問をよくしましたが、いたる は ふみ が幼いころに離縁。その後まもなく ぎすけ もこの世を去ります。ふみ を立派な学者に育てるため、こつる は女手ひとつで幼い我が子に学問を教えなければなりませんでした。 しかし、こつる自身は塾や学問所で学んだ経験はありません。当時は女性に学問は必要ないという考え方が一般的で、こつる は ぎすけ の開いていた塾の片隅で、生徒が教わっている内容に聞き耳を立て、本を読むしか学ぶすべがなかったのです。 夫も、父もなく、けれども ふみ にはきちんとした教育を施さなければならない。自分が間違ったことを覚えて、息子に教えることがあってはならない。こつる にはそうしたプレッシャーがあったのではないかと考えられます。そうした中で頼れるのは、こつる よりはるかに年下ながら、京・大坂に遊学し、「正式な学問」を修めた 三木つうしん でした。今回見つかった つうしん 宛書簡の署名の多くが「ふみ母」「けんじ母」となっていたのは、母親として、息子のために尋ねたいという強い気持ちの表れだったのかもしれません。 もちろん、積極的に学ぼうという姿勢の背景には、そうした義務感だけでなく、こつる 自身が持つ学問への情熱もあったはずです。つうしん から こつる に宛てた書簡は、今のところ『せいひょうぶんそう』に一通が残るだけですが、こつる の書簡からは、つうしん が こつる の依頼に丁寧に対応していたこと、特に漢詩の添削は細かいところまで見て、良かったところはその旨をきちんと伝えていたことなどがうかがえます。こつる もまた、そうした つうしん の対応に対して深い感謝の言葉を返しています。 今回発見された こつる の書簡についての調査は、まだはじまったばかりです。これからも新たな発見があれば、この場でお伝えしていきたいと思います。 写真=『せいひょうぶんそう』(三木家資料)こつる と つうしん がやりとりした書簡を記録したもの 訂正 広報ふくさき11月号の「松岡五兄弟」第54話で、松岡みさおが『こつる女史詩稿』をまとめたのは、こつる亡き後と書きましたが、同書は安政2年(1855年)にまとめられており、このとき こつる は存命中でした。訂正いたします。