広報ふくさき 令和3年(2021年)1月号 10ページ ---------- 松岡五兄弟(松岡えいきゅう)第56話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう   松岡てるお(えいきゅう)の子ども時代  神戸大学大学院人文学研究科 特命助教 井上舞 新年あけましておめでとうございます。 今年は、松岡五兄弟の末弟で、日本画家となった松岡てるお(えいきゅう)の生誕140年の節目の年にあたります。これを記念して、柳田國男・松岡家記念館では、現在、秋に開催予定の記念展の準備が進められているところです。「松岡五兄弟」シリーズでも、今年1年は、松岡てるおの事績を追っていきたいと思います。 今回は、辻川時代のてるおに関するエピソードを紹介していきます。 てるおは明治14年(1881)7月9日に、松岡みさお・たけの8男として生まれました。このとき、長兄のかなえ は23歳。同年に医師となるため、上京しています。また、井上家の養子となった みちやす も、同家の家業を継いで眼科医となるため、上京していました。かなえ が上京した時期は不明ですが、もしかしたら、 かなえ と みちやす は、てるお誕生の知らせを東京で聞いたのかもしれません。 松岡家は明治17年に辻川を離れ、母の実家がある北条(現在の加西市北条町)に移り住んでいます。よって、てるお が辻川で暮らしていたのは、ほんのわずかな期間にすぎません。このため、てるお 自身はあまり辻川時代のことを憶えていないのですが、柳田國男は『故郷七十年』のなかに、幼い頃の てるお のほほえましいエピソードを、いくつか残してくれています。 そのうちのひとつは、日本画家・松岡えいきゅうの誕生に関わるお話です。 当時、辻川にあった旅館「ますや」には、人力車の立場(中継所)がありました。そこには周辺地域からの人力車が集まってきており、その背後には武者絵が描かれていたそうです。幼い くにお・しすお・てるお の3兄弟は、様々な武者絵を見るために、毎日のように立場に通ったといいます。(「東京の印象」)。 くにお は、東西南北の交通路が交わる、辻川という場所に生まれ育ったことが、今の自分を作った一因だと語っています。てるお もまた、そうした交通の要衝に生まれたために、そこに集まる人力車に描かれた武者絵に触れ、画家としての道を歩み出したといえるのかもしれません。 もうひとつは、てるお が3歳の頃のお話です。 この頃、てるお はすでに、ひとりで近所に買い物に行けるようになっていたようです。ある日のこと、てるお は筋向かいの豆腐屋にお使いに行ったのですが、帰ってきてみると、買ってきた揚豆腐の端っこが齧られていました。不思議に思った母親が問いただすと、てるおは、「上坂の方から鼠が来て、味噌漉の端にちょこんとのって、端の方を齧って逃げた」と、答えたそうです。 本当は自分がちょっぴり齧ったものを、咄嗟に鼠のせいにしたその答えがおかしかったのか、日頃しつけに厳しい母親も、このときばかりは怒らなかったそうです。(「川舟交通」)。 かなえ と みちやす が上京し、辻川に残った兄弟の最年長となった くにお は、この時期、お兄ちゃんとして、しずお や てるお の面倒をみていたからこそ、こうしたささやかな思い出をよく覚えていたのではないでしょうか。 余談になりますが、「松岡五兄弟」シリーズの第一話(平成25年(2013)12月号)のテーマは、松岡てるお でした(「松岡えいきゅう没後75年によせて」)。以降、他の兄弟をテーマにした話の中に、てるお はたびたび登場するのですが、てるお をメインテーマにした話は、一度も書かれていませんでした。(私自身も気づいていませんでした)。 今年は今まで書いてこなかった てるお の魅力をたくさんお伝えしていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 写真=ますや旅館跡、上坂付近