広報ふくさき 令和3年(2021年)3月号 15ページ ---------- 福崎町文化財だより(79) 3ページ目 ---------- 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう   松岡五兄弟 第57話 松岡えいきゅう 画家への道のり  神戸大学大学院人文学研究科 特命助教 いのうえまい 今回は、松岡てるお(えいきゅう)が画家を目指すまでのエピソードを紹介していきたいと思います。 前回紹介した、人力車に描かれた武者絵のエピソードからもうかがえるように、てるお は幼い頃から絵に興味を持っていたようですが、どうやらそれは、父・みさお の影響もあるようです。 みさお は絵を描く才能を持っていたようで、てるお や、次兄の井上みちやすは、父の絵に関する思い出をいくつか語っています。 みちやす は、自身が子どものころ、みさお がしばしば武者絵をはじめとする絵を描いて遊んでくれたと記しています。(「少年時代のてるお」) てるお もまた、両親との思い出を語るなかで、みさお が、子どもには理解しにくい話について図を描いて説明してくれたこと。逆に、てるお 夫が、お祭りや芝居の話をするときには、その内容を絵にするよう言われ、言われるままに絵を描くと、何かと批評してくれた、などと書き残しています。(「両親についての感想」) てるお が生まれたころ、みさお はすでに家督を かなえ に譲って隠居していました。このため、自然と てるお と過ごす時間も増え、みさお の絵心が てるお に伝えられたのかもしれません。 明治17年(1884)、てるお が4歳の折、松岡家は 川を離れ、たけ の実家がある北 条(現在の加西市北条町)に移り住みます。 その後、長兄の かなえ が布川(現在の茨城県北相馬郡)で開業したことを機に、くにお は他の家族よりも一足早く、兄の元に身を寄せることになりました。このとき、しばらく身を寄せていた みちやす の下宿近くに、絵草紙屋を見つけた くにお は、そこで錦絵を買っては てるお に送ってやったと語っています。(「東京の印象」) このほか、くにお は、てるお と一緒に葛飾北斎の絵手本である『北斎漫画』を読んだ、という思い出を語っています。(「北斎漫画のことなど」)。『故郷七十年』では、「弟(てるお)が両親とともに布川に来てから」の出来事のように語られていますが、みちやす の残した文章を見ると、どうやらこれは、ふたりが東京の みちやす 宅に身を寄せていたころの話のようです。 みちやす によれば、このころ、てるお は暇さえあれば武者絵を描いていたそうです。これを見た みちやす が、『北斎漫画』を買い与えたところ、てるお は大喜びし、学校から帰るとすぐにこの本を開いて、そこに描かれた絵を熱心に写していたといいます。 てるお の雅号「えいきゅう」は、みちやす がつけた、というのはよく知られた話ですが、どうやらみちやす は、自身が歴史を学びたかったにもかかわらず、養家の意向で医学の道に進まざるを得なかった経験から、弟たちには好きな道に進んで欲しいと考えていたようです。てるお に対しても、様々な形で援助をしていました。 そのひとつが、絵を描く技術に関することです。ちょうど、みちやす の眼科医院の患者に、美術学校の卒業生がいました。その人物は てるお が絵を描くと知り、筆を数本くれた上に、筆や絵の具の使い方まで教えてくれたそうです。 また、画家の橋本がほうと旧知の仲だったこともあり、てるお が中学校のときに、弟子にしてくれるよう、取りはからってくれました。橋本がほうは、東京美術学校(現在の東京芸術大学)の開校に尽力し、明治期の美術界に大きな影響を及ぼした人物です。てるおが がほう の弟子になれたのは、画家を志す てるお にとって、とても幸運な出事だったはずです。しかし、てるお は がほう の画風があわなかったようで、数年で がほう のもとを去り、その後、山名つらよしに弟子入りしています。 やがて中学校を卒業した てるお は、東京美術学校を受験することになります。両親は画家になること、同校に進学することを反対していたようですが、このときも、みちやす が、てるお が望んだ道に進めるよう、両親を説得したといいます。 そして、てるお は東京美術学校日本画科に入学。明治37年、同校を首席で卒業したのです。 写真=「物語絵」(柳田國男・松岡家記念館蔵)