広報ふくさき 令和3年(2021年)7月号 16ページ ---------- 松岡五兄弟 まつおか えいきゅう 第59話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 日本画家・松岡映丘の誕生 神戸大学大学院人文学研究科 特命助教 いのうえ まい 明治37年(1904)、東京美術学校を卒業した輝夫は、翌年、神奈川県立女学校兼師範学校の教諭となります。美術学校の学費は、兄の鼎や通泰が援助してくれていましたが、卒業後は自分で生活費を稼がなければいけなくなったのです。  このころの輝夫について知ることのできる資料は少ないのですが、小説家の村松梢風が日本画家の人物伝をまとめた『本朝画人伝』には、教諭時代のいくつかのエピソードが残っています。同書によると、輝夫は非常に熱心に生徒を指導し、教授方法などもきちんと準備していたそうです。また、若い上に美術学校を首席卒業、しかも美男子だった輝夫は、女子生徒に大人気だったとか。  しかし、ここでの生活は長くは続きませんでした。制作に専念するため、明治40年には教職を辞して上京。同年開催された第1回文展(文部省美術展覧会)に出品しますが、落選してしまいます。これ以降、出品しても入選に至らないことが続きました。明治41年には、母校である東京美術学校日本画科の助教授となり、自宅で歴史風俗画会を開くなど、積極的に教育・研究に取り組んでいましたが、画家としては辛い時期であったようです。  このころの輝夫を支えたのは、兄の通泰でした。日本画を描くためには、絵の具をはじめ、様々な道具が必要です。東京美術学校の助教授となってからはともかく、それ以前は生計を立てながら絵を描くことは、大変なことでした。しかし通泰は安易な援助はせず、金銭が必要であれば絵を描いて持ってくれば、それを買い取るという形で、弟を助けていました。ほかにも、浴衣の柄を描かせたりすることもあったようです。(井上通泰「少年時代の輝夫」)。その一方で、美術関係者に輝夫を宣伝することも怠りませんでした。版画家の石井柏亭によれば、明治38年ごろ、彼は通泰の営む眼科医の患者でしたが、あるとき通泰から歌をしたためるための絵葉書を見せられ、「これは美術学校にいる弟が描いたものです」と紹介されたそうです。(石井柏亭『画人東西』)。  こうして、画家として苦しい時代をおくった輝夫に転機が訪れたのは、大正元年(1912)のこと。第6回文展において、『源氏物語』の一場面を題材にした「宇治の宮の姫君たち」が入選したのです。当時、この作品に付された評価は必ずしも高いものではありませんでしたが、苦労を重ねた末に掴んだ入選は、輝夫にとって大きな喜びであったことでしょう。