広報ふくさき 令和3年(2021年)7月号 6ページ ---------- ヒューマンライツ イン 福崎町 ---------- 「生きること」福崎東中学校3年(当時)やまみち まさや 父は、僕が小学五年生の時にくも膜下出血という病気で突然倒れました。すぐに救急車で病院に運ばれて入院することになりました。夏休みが始まったばかりの頃で、僕は何が起こったのか分からなくなり、頭が真っ白になりました。まだ小学生だったので、全く状況が理解できず、その日の夜は全く眠れませんでした。次の日に約五時間半に及ぶ手術が行われ、何とか父の意識は戻りましたが、右半身が動かない後遺症が残ってしまいました。  父は、その後二週間ほど、ICUという術後の患者や危険な状態の患者が入院する病室で生活をしました。僕はお見舞いにいく度に、「父はもうすぐ死んでしまうのではないか。」と悲しくなり、病室の外で泣いていました。  僕はその頃、少年野球をしていましたが、こんな状況では野球をすることもできず、休んでいました。そんな時に、同級生たちが父のために千羽鶴を折って持ってきてくれました。父は話をすることはできなかったけれど、すごく喜んでいたと思います。僕もそれまでは自分が楽しむためだけに野球をしていましたが、今回のことで改めて野球はチームスポーツであることを意識して、仲間をもっと大切にしていかなければと思いました。  父は、手術をしてから一か月後には一般病棟に移ることができました。ICUにいた時には一人でご飯を食べることができなかったけれど、それもできるようになり、リハビリも始まりました。リハビリでは、右手が使えないので左手でボールを投げたり、箸を持ったりできるようになりました。発声練習で少しだけ声が出せるようになり、久しぶりに父の声を聞いた時には、すごく懐かしく感じました。  やがて新学期が始まり、僕が病室に行く回数は減りましたが、その日にあったことや妹との会話をスケッチブックに書いて、母が病院に持って行ってくれていたので、顔は見られなくても父は安心できていたと思います。  しばらくして僕は、ずっと休んでいた少年野球に復帰することになり、久しぶりに練習に行くと、友達や監督・コーチが、「おかえり。」と言って、温かく迎えてくれました。その時には「このチームで野球をしていて本当によかった。」と心の底から思いました。  父は、入院してから一年後にようやく退院できましたが、右半身がまひしている状態なのでまだ介護が必要です。そのため、病院では看護師さんが毎日交代でしていた介護を、今は母が毎日一人でしています。介護がたいへんで、母のしんどそうな顔を何度も見てきました。しかし、テレビを見たり、妹がおもしろいことを言ったりして、母が笑っているところを見ると、なぜかすごく安心できます。毎日疲れているけれど、笑うことで気持ちが楽になったり、落ち着いたりできるのかなあと思いました。  僕はそんな母の姿を見てきて、将来は人の役に立つ仕事や人の命を救う仕事がしたいと思うようになり、救急救命士や理学療法士になりたいと考えています。  また、父が倒れてから、毎年「二十四時間テレビ」を見るようになりました。障害がある人の気持ちが分かるような気がして、テレビを見ているといつも応援したくなります。障害がある人が山を登ったり、ピアノを弾いたりすることは、みんなが思っている以上に難しいことで、とても勇気がいることです。僕はその姿にとても元気をもらいました。誰かに応援してもらうことはその人のエネルギーになります。だから僕は、誰かを応援する人になりたいし、誰かに応援してもらえる人にもなりたいです。みんなにも同じように考えてもらえるとうれしいです。  今、みんなが学校に来て、友達と笑い、授業を受けていることは、決して当たり前ではありません。たくさんの人々の支えがあって、今を生きることができていると思います。僕は、このことを決して忘れることなく、支えてくれている人のためにも一生懸命生きていこうと思っています。 --------- ポスター作品 田原小学校3年(当時)わだ れな 福崎小学校3年(当時)なかのう かすみ 高岡小学校6年(当時)ごとう なつき 福崎西中学校2年(当時)おかもと るな ---------- 人権標語 いじめとは 人の人生 変えること 福崎小学校4年(当時)かせざわ あん 友だちの いいとこ何こ 言えるかな 田原小学校5年(当時)まつおか かいじ 毎日が スマイル曜日 めざそうよ 八千種小学校4年(当時)まつおか れん あいさつで つなげていこう 笑顔の輪 福崎西中学校2年(当時)もりした にこ