広報ふくさき 令和3年(2021年)10月号 15ページ ---------- 松岡五兄弟(松岡映丘)第61話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 神戸大学大学院人文学研究科 特命助教 井上舞 欧米諸国への旅  大正元年(1912)の第6回文展(文部省美術展覧会)に入選して以来、松岡輝夫の画家としての活躍はめざましいものがありました。展覧会での入選を重ねる一方、新しい時代の芸術を求めて、金鈴社を結成。また、東京美術学校の教授として後進の指導にあたったほか、門人たちの活動も積極的に支援していました。私生活では門人であった林静野と結婚しています。  ところで明治以降、日本は諸外国と交流するようになりました。美術界でもさまざまな形で国際交流が行われるようになります。日本の美術品が海外で展示されたり、逆に諸外国の作品の展覧会が日本で開催されるようになったのです。輝夫もまた、当時の日本を代表する画家として、作品が海外の展覧会に出展されることがありました。現在わかっているものとしては、大正11年(1922)、フランスで開催された「日仏交換美術展覧会」に「四月の朝」という作品が、昭和4年(1929)に同じくフランスで開催された「巴里日本美術展覧会」に「卯の花車」という作品が出展されています。「卯の花車」はフランス政府買い上げとなりました。またこのときの功績として、昭和6年にフランス大統領から勲章を授与されています。  そして作品だけでなく、輝夫自身も海外に赴くことになりました。  昭和5年、実業家で美術愛好家でもある大倉喜七郎は、日本美術を正しく世界に広めるため、イタリアで日本美術の展覧会を企画します。日本を代表する作品を出展するため大倉は奔走し、当時別々に活動していた美術団体から協力を得ることに成功しました。そして80名の作品がイタリアのローマに送られたのです。さらに、会場には日本から畳や床の間が運び込まれました。同行した大工がこれらを組み立て、華道の大家が花を活けました。あたかも日本家屋のような空間をしつらえ、そこで日本画を鑑賞できるようにしたのです。  こうして開催されることになった「羅馬開催日本美術展覧会」の開会式に、輝夫が出席することになりました。あわせて、文部省より欧米各国の視察を命じられます。  昭和5年2月、輝夫は金鈴社で一緒に活動した平福百穂と、門下生の長谷川路可とともに、神戸から榛名丸で出港します。このとき、三木拙二も見送りに来ていたようで、三木家には輝夫からの礼状が残されています。日本画家とはいえ、西洋の美術にも興味があったので しょう。新聞の取材に対して、「イタリーで古美術を見学することでは人一倍慾ばって来ようと思つてゐます」(『東京朝日新聞』昭和4年2月26日朝刊)というコメントを残しています。  4月にローマに到着し、展覧会の開会式に出席した後は、半年近くにわたって、長谷川路可とともに欧米諸国を視察し、著名な画家の作品などを鑑賞したようです。 帰国後に新聞に寄せたコメントでは、欧米の近代画家が、日本画の手法を多分に取り入れていることに驚いたと語っています。(『東京朝日新聞』昭和5年9月7日朝刊)。海外に渡った日本の作品を見る機会もあったらしく、アメリカのボストン美術館では、「平治物語絵巻」の現物を見て感激し、メトロポリタン美術館では、日本では知られていなかった「聖徳太子絵伝」を発見したそうです。(『読売新聞』昭和5年9月7日朝刊) また、アトリエを借りて作品の下絵を描くこともあったようです。このとき、イタリア人のモデルを雇って下絵を描いた作品が「即興詩人」です。このほか、「聖尼クララの寺」という風景画も制作しています。いずれも日本画の技法を用いて、西洋の風物を描いた意欲的な作品となっています。