広報ふくさき 令和3年(2021年)11月号 15ページ ---------- 松岡五兄弟(松岡映丘)第62話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 神戸大学大学院人文学研究科 特命助教 井上舞 鎧を愛した日本画家  柳田國男は『故郷七十年』の中で、 川にあった人力車の立場(中継所)の思い出を語っています。立場に集まる人力車の背には、武者絵が描かれており、國男・静雄・輝夫の兄弟は、毎日のようにここに通ったそうです。(「東京の印象」)武者絵とは、その名の通り甲冑姿の武士や合戦の場面を描いたもので、國男は曾我兄弟(仇討ちで有名な、鎌倉時代の武士)の絵などについて、輝夫に説明してやったと言います。(「末弟松岡映丘」)晩年の國男が何度も思い出すほど、立場の風景は印象深いものだったのでしょうか。  輝夫はやがて、見るだけでは飽き足らず、自分でも絵を描くようになります。柳田國男・松岡家記念館には、輝夫が6歳のころに描いたという絵が残されています。平安時代の武将、みなもとの よりよし を描いたその絵は、複雑な構造の大鎧が丁寧に描かれています。胴部分の文様や刀の装飾、鎧の下に着込んだ着物の柄までも細かく描き込まれ、さらには鮮やかに彩色されています。何らかの手本があったのでしょうが、よほど夢中になって描かないとここまで細かな描写はできないでしょう。一生懸命に武者絵を描く輝夫少年の姿が目に浮かぶようです。 写真=『みなもとのよりよし』(柳田國男・松岡家記念館蔵)  輝夫の武者絵好きはその後も続きました。低年齢層の子ども向けに創刊された雑誌『小国民』に挿絵として掲載された武者絵を眺め、模写することで、絵の技術を磨いていったのです。  ところで同誌に武者絵の挿絵を描いていたのは、後に輝夫も参加する「歴史風俗画会」を主宰し、東京美術学校の教授にもなった小堀鞆音でした。小堀は鎧を好み、古い鎧や武 具を修理するにとどまらず、著名な鎧の復元に取り組みました。仲間や弟子にも制作を勧め、ときに武者行列を催したり、鎧をまとった姿を写真に収めたりしています。輝夫も、長じて小堀と知りあった後、こうした催しに参加していたようです。  輝夫もまた、小堀の影響を受け、いくつかの鎧を復元しています。そして、自らも鎧をまとい、弟子たちにも衣装を着せ、さまざまなポーズを決めた写真を何枚も残しています。  このように書くと、小堀鞆音や輝夫らは、何やら趣味に全力を尽くしているように思えますが、実際のところ、日本画、特に武士や合戦の絵を描くために、鎧の研究は必要不可欠でした。昔の鎧は残っていても、実際にそれを着用することはできません。とはいえ、並べられた鎧だけを見て、鎧をまとって動く人を描くことは困難です。そこで、鎧や武具などを復元し、これを身につけてさまざまな動きの写真を撮ることで、よりリアルな表現を求めようとしていたのです。  姫路市立美術館には、鎧姿の輝夫の写真が何枚も収められたアルバムが所蔵されています。それらの中には、「平治の重盛」などの制作にモデルとして使われたとみられる写真が確認されます。また、輝夫は昭和に入って以降、多くの鎧武者を描いていますが、それらの鎧は、いずれも細部まで非常に丁寧に描き込まれています。これらは、鎧の復元やそれにともなう調査・研究の成果であったと考えられます。  とはいえ、参考資料として鎧姿の写真が必要なのであれば、弟子に着せればよいわけで。自ら鎧をまとって格好良く写真に収まる映丘先生には、武者絵に夢中だった輝夫少年の心が多分に残っていたのでしょう。 写真=『平治の重盛』画稿(柳田國男・松岡家記念館蔵)