広報ふくさき 令和3年(2021年)12月号 11ページ ---------- 松岡五兄弟(松岡映丘)第63話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 神戸大学大学院人文学研究科 特命助教 井上舞 松岡輝夫と三木拙二    松岡輝夫は明治14年(1881)生まれ。同17年に、松岡家は北条町(現在の加西市北条)に移り住みました。輝夫が 川で過ごしたのはほんの数年間。物心つく前のことでもあり、柳田國男とは異なり 川についての記憶はほとんどなかったと思われます。  とはいえ、松岡家にとって、川は先祖が眠る土地であり、輝夫もまた、何度か 川に墓参りに帰ってきていたようです。そして、その際に何かと世話を焼いていたのは、柳田國男の竹馬の友、三木拙二でした。  今年度、松岡家の人々から三木家に宛てられた書簡類の調査を行いました。この調査によって、國男だけでなく、松岡家の兄弟それぞれが、三木拙二と交流を持っていたことがわかってきました。今回はその中から、輝夫に関する書簡を紹介します。  輝夫から拙二に宛てられた書簡類で、多く残っていたのは、年賀状です。古いもので、明治43年(1910)。新しいものは昭和11年(1936)のものがありました。この間の全ての年賀状が残っているわけではありませんが、おそらく毎年、年賀状のやりとりをしていたものと思われます。  また、例年4月の終わりから5月頃に、拙二は輝夫に鯛の「浜蒸し」を送っていたようで、輝夫からの礼状が何通も残っています。鯛以外にも、餅や松茸についての礼状があり、ふたりは頻繁に贈答を行っていたようです。  このほか、拙二が日本画家・松岡映丘に作品制作を依頼することもあったようです。昭和6年の拙二宛書簡には、できあがった作品を発送したと書かれています。また、作品は1点だけでなく、掛け軸や色紙など、さまざまなサイズのものを複数送っています。三木家だけでなく、近隣の人々からの依頼を拙二がとりまとめていたのかもしれません。別の書簡には、画料を受け取ったことが書かれています。この書簡は年代が大正期か昭和期かわからないのですが、「画料三百円」とあり、いずれの時期にしてもかなりの大金であったことは確かです。  もうひとつ、面白い書簡を紹介しましょう。大正4年(1915)のもので、南洋領に赴いていた兄の海軍中佐・松岡静雄が、横須賀鎮守府に転任となったこと、これにより少し時間ができたため、墓参りを兼ねて帰郷し、三木家を訪問したい、といった内容が書かれています。ただし、静雄は単に帰郷するだけでなく、辻川で自分が見聞きしたヨーロッパの情勢や、南洋諸島の状況について講話をしたいと希望しており、ついては拙二に人を集めて欲しい、しかも、高尚な内容につき、子どもを集めても意味が無いので、当地の有力者を集めて欲しいとまで書かれています。  そこまで言うのであれば、静雄自身が拙二に依頼すればよいと思うのですが、静雄は幼少時に拙二に会ったきり、その後手紙のやりとりもしていないため、輝夫が兄の意向を受けて手紙を書いたというのです。この書簡を、輝夫がどのような心持ちでしたためたのかはわかりません。ただ、兄の突然の依頼をそのまま伝えられる程度に、ふたりは日頃から書簡のやりとりをしていたことをうかがい知ることができます。返信が残っていないため、その後の顛末は不明ですが、果たして静雄の希望は叶えられたのでしょうか。  ところで、輝夫は生涯に何度か辻川に帰っているようです。そのたびに輝夫は三木家を訪問し、拙二もまた手厚くもてなしたようで、丁寧な礼状が残されています。  輝夫が最後に辻川を訪れたのは昭和12年10月。病を押しての帰郷でした。このときも輝夫は旅中、帰宅後と何度も礼状を送っています。  そして帰郷から数ヶ月後の昭和13年3月、輝夫はこの世を去ったのです。 写真=三木拙二宛松岡映丘葉書(表裏)(三木家資料)