広報ふくさき 令和4年(2022年)3月号 17ページ ---------- 福崎町文化財だより(79) 3ページ目 ---------- 松岡五兄弟 第64話 松岡えいきゅう 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう   晩年の松岡輝夫  神戸大学大学院人文学研究科 特命助教 いのうえ まい 昭和10年(1935)、輝夫は心臓性喘息と診断され、長年勤めてきた東京美術学校を欠勤。同年9月には、職務を全うできないという理由で、辞職を願い出ています。  しかし、これをもって美術界から身を引いたわけではありませんでした。画家としては、亡くなる数ヶ月前まで、次々と作品を発表しています。中には昭和12年の作品、「矢表」のような大作(縦・約164センチ、横・約370センチ)もありました。  柳田國男は、このように病を押して一途に制作に打ち込んだことが、輝夫の死期を早めたのではないかと述懐しています。絵の具が垂れないように、紙や布を床に広げて描くために、しぜんと姿勢が悪くなり、体に無理があったのではないか。また、みすぼらしいのを嫌って、展覧会に大きな作品を出していたのも良くなかったのではないか、と語っています。(「末弟松岡映丘」)  健康を顧みず、制作を続けた輝夫の姿は、國男にとってよほど印象に残っていたのでしょう。輝夫の没後、美術雑誌に追悼文を寄せたときにも、國男は制作時の姿勢を話題にし、日本画全体の問題として関心を持って欲しいと訴えています。(『塔影』第14巻第4号、1938)  輝夫は自らの作品を制作するだけでなく、美術界の改革にも尽力しました。大正10 年(1921)には若い弟子たちが結成した「新興大和絵会」の顧問となり、後方から弟子たちの活動を支えました。  また昭和10年には、文部大臣の管轄下にあった「帝国美術院」と、同院が開催している「帝展」の改組問題に反発し、弟子たちとともに、在野の美術団体である「国画院」を発足させています。このとき、改組の反対運動で東奔西走したことで、病気を悪化させたとも、東京美術学校を辞職した本当の理由は、実は病気によるものでなく、改組に対する反発であったとも言われています。ただ、いずれにしても病は確実に輝夫の体をむしばんでいきました。  柳田國男が最後に輝夫に会ったのは、昭和13年2月22日のこと。見舞いに訪れた國男は、絵を描くときの姿勢の悪さに触れ、なるべく小さい絵を描くように、と忠告したそうです。しかし、それが活かされることはありませんでした。そこから10日も経たない3月2日、輝夫はこの世を去りました。享年57歳。輝夫の死を伝える新聞記事によれば、突然の逝去であったため、親戚や門下生は臨終に間に合わず、しずの夫人をはじめ、家族数人だけがその最期を看取ったそうです。  葬儀は3月5日に、青山斎場で執り行われました。松岡兄弟は、昭和9年に長男・かなえが、そして11年には七男・静雄が亡くなっています。井上通泰と柳田國男にとって、数年の間に兄弟たちが次々と亡くなったこと、しかも、ふたりの弟が先に逝ったことは大きな悲しみであったことでしょう。通泰は、「弟松岡輝夫のうせし夜」と題して よみの路ふみやはじめし 屋の上になほやたたずむ この夜この時 ねぶられぬ耳にぞひびく へだたりて臥したる妻の しはぶきの声 という歌を詠んでいます。  輝夫の死後、美術雑誌はこぞって追悼特集を組み、多くの弟子・知人が追悼文を寄せました。また没後2年にあたる昭和15年には、遺作展も開催されています。  なお、輝夫が残した千点にも及ぶ画稿(絵の下書き)は、昭和50年にしずの夫人によって、柳田國男・松岡家顕彰会記念館(現在の記念館)に寄贈されました。本画のような華やかさはありませんが、この画稿は、日本画家・松岡映丘を知るための貴重な資料であり、現在も整理・調査・研究が行われています。 写真=「後鳥羽院と神崎の遊女たち」画稿(柳田國男・松岡家記念館蔵)