広報ふくさき 令和5年(2023年)6月号 12ページ ---------- 松岡五兄弟 まつおか みさお 第73話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 松岡操と出版事業 神戸大学大学院人文学研究科 特命講師 いのうえ まい  松岡五兄弟の父である松岡みさおは、幼い頃から学問に優れ、じんじゅざん校や姫路藩の藩校であるこうこ堂で学びました。素行不良とがめられ退校処分となり辻川に帰ってからは、生活のために医師となりますが、その後、請われて姫路の郷学・ゆうせん舎の教授となり、家族を連れて姫路へと移住します。ゆうせん舎での暮らしは充実していたようですが、時代は明治へと移り変わり、再び辻川へと帰ることになります。  その後のみさおは一家の生活を支えるために、様々な職に就きます。林田藩(今の姫路市)の藩校や、地元辻川の小学校の教員、ときには多可郡の荒田神社の神官なども務めました。  その傍らで、みさおはいくつかの出版事業にも携わっていました。  ひとつは文芸誌の編集・出版です。『ばんようふうが』という、播磨を中心とした近隣の文化人たちが詠んだ漢詩をまとめた本があります。文久3年(1863)に発刊した第一集では、みさおはいち作者として登場するだけですが、明治4年(1871)の第二集では校注者のひとりとして名前が見えます。また、同書の寄稿者には、井上通泰の養父である井上せきへいや、せきへいの実家の中川家の人々の名前もあり、松岡家と中川家との文化・学問を通じた交流の一端を知ることができます。  柳田國男も『故郷七十年』の中で、同書について触れ、「青年達が詩だの文だのを漢文で書いたものを、父が世話をして一冊に纏めて、どこかの本屋とくんで出版してやったものらしい」と語っています。一方で、この出版事業で本屋とのトラブルなどがあり、みさおは「神経衰弱」になったのだとも語っています。(「生家にあった子供の本」)。  もうひとつは、いわゆる教科書です。現在、国立国会図書館デジタルコレクションでは、松岡みさおが校注したり著述した書籍、@『こくしらんようしつもんろく』、A『にほんりゃくしちゅうかい』、B『日本地誌略註解』、C『人体部分名称誌』D『しょうちょくしゅうらん』、の5点11冊を閲覧することができます。いずれも明治9年から10年にかけて発刊されたもので、「小学書籍製本所」の名と、京都の小川金助なる人物、そして大阪・神戸・姫路の支店の住所が書かれています。この小川金助という人物は、別の資料には「飾磨県御用書林」「飾磨県御用じょうぼく所」(※じょうぼく=書物を出版すること)とあり、播磨地域と関係の深いしょし(本屋)だったようです。  これらの書籍ですが、@からBはそれぞれ『国史攬要』『日本略史』『日本地誌略』という、歴史書や地理書の内容に沿いながら、書中に使われている言葉の意味を解説しています。  Cは書名の通り、人体の様々な部位について、まず上(首から上)、中(両手と胴・腰・腹)、下(腰から下)に分け、それぞれの部位について読みと意味を説明しています。例えば上部の項であれば、「瞼ハ上下アリ共ニ目ノ蓋ナリ」「涙ハ目ヨリ出ル液ヲ云」などと書かれています。また、それが実際にどの部位なのかがわかるように挿絵も使われています。  Dは明治時代に入って明治政府から出されたさまざまな命令について、漢字にふりがなをつけて読みやすくしたものとなっています。 いずれも子ども用ではなく、教師が用いるための教科書と考えられます。当時、小学校ができたばかりで、正規の教員は少なく、ときには勉強ができた子どもが小学校を卒業してすぐに、補助員として教える側になることもありました。そうした人たちにとって、こうした教科書は授業の助けとなったでしょう。また、こうした経験は、自分の子どもたちの教育にも役立ったのかもしれません。 写真=『人体部分名称誌』画像提供:国会図書館デジタルコレクション 写真=『こくしらんようしつもんろく』