広報ふくさき 令和5年(2023年)7月号 16ページ ---------- 松岡五兄弟 おしばけ 第74話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう たけの実家、尾芝家のこと 神戸大学大学院人文学研究科 特命講師 いのうえ まい  松岡五兄弟の母たけは、北条(現・加西市北条町)のおしばけから嫁いできました。同家は今はなく、関連する資料も現在のところほとんど確認されていないため、おしばけがどのような家であったかは、よくわかっていません。たけ自身も実家の歴史について何かを書き残すといったことはしていません。ただ、折に触れて実家のことを口にすることはあったようです。  幼い頃の柳田國男は、母親の「腰巾着」で、母親の言動をよく見聞きしていました。おしばけのことも聞いていたのでしょう。「私も小さいころ耳にした話だから、まちがいだらけだろうと思う。」と前置きしつつも、『故郷七十年』の中でおしばけについてのエピソードを語っています。  それによれば、北条にはおしばという家が五、六軒あり、ほとんど商家であったのが、たけの生家だけは医者でした。たけにはふたりの兄と、ひとりの妹がいましたが、長兄は病を患い巡礼に出て帰らず、次兄も若くして亡くなりました。そうした中で、他家に嫁いでいた、たけの父である おしば りしち の妹、つまりたけの叔母が、何かと世話を焼き、たけの妹は父の世話のためにおしばけに残り、たけは姫路藩の家老の家に奉公に出た後、松岡家に嫁いだようです。(「母の兄弟」)  兄弟たちが生まれた頃には、おしばけはすでに衰退の一途を辿っていました。りしちとその妻の墓も、一族ではなく、たけの夫である松岡みさおが建てています。  松岡家の兄弟たちは、母の実家についても松岡家と同様に粗末にせず、帰省の機会があれば墓参りをし、人に頼んで墓の世話をしてもらうこともありました。また、みさおが作ったとされるおしばけの系図も残っていたようです。  そんな尾芝家の人物について、柳田國男と井上みちやすが協力して事跡を辿ろうとしたエピソードが残っています。  りしちの祖父の弟に、おしば せいしょ という儒者がいます。せいしょは京や大坂で学び、大和(現・奈良県)で私塾を開いた後、寛政12年(1800)に同じ大和の小泉藩に仕える儒者となりました。漢詩をよくし、『せいしょししょう』や『せいしょいちやひゃくしゅ』などの漢詩集も編さんされています。もっとも体があまり丈夫でなかったようで、文化元年(1804)に亡くなっています。(享年は記録では66歳とされていますが、せいしょについて調べたみちやすは、この享年は誤りで、実際は36歳で亡くなったとしています。)  この おしば せいしょ の墓の在処を、みちやすと國男はそれぞれに手を尽くして探そうとしました。しかし、このときふたりの間に勘違いが生じます。  みちやすは、兄のかなえから墓が大和にあると聞き、周辺を熱心に探していました。しかし実際は、北条のおしばけの墓所にせいしょの墓があったのです。それを國男に伝えたところ、「それはすでに知っている。大和に別の墓があってそれを探しているのだと思っていた」という返事がきて、みちやすは「しばらく口が塞がらなかつた」のだそうです。國男のほうも『故郷七十年』で同じ話を取り上げており、このために色々と手を尽くしたのに全て徒労に終わり、さらにはみちやすが「こっぴどく私の粗忽を責めた」とも語っています。このときの様子、少し見てみたい気もしますね。  ちなみに松岡家にあったというおしばけの系図によれば、せいしょの姉のひとりは、みちやすの養家である吉田村の井上家に嫁いでいます。  おしばけについては、まだわからないことが多くあります。しかし地域にはまだ多くの史料が眠っています。これらの史料が発見され、調査・研究が行われることで、そいばけや松岡家についての新たな発見があるかもしれません。 写真=『せいしょいちやひゃくしゅ』(国立公文書館デジタルアーカイブ) 写真=おしばけ墓所(加西市きくがや墓地)