広報ふくさき 令和5年(2023年)8月号 12ページ ---------- 松岡五兄弟 まつおか みさお 第75話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 松岡操の東京滞在 神戸大学大学院人文学研究科 特命講師 いのうえ まい 松岡五兄弟の父、松岡操の晩年については、これまであまり資料が確認されておらず、柳田國男が『故郷七十年』で紹介するエピソードに頼るほかありませんでした。  近年、松岡家に関する資料調査で、操自身が書き付けた漢詩や覚書などが多数確認されました。これらの資料の調査を進めることで、操の学問や人となりについて、新しい発見が期待されます。今回はその中から、操が東京を訪れた際の記録である「東京渡遊中日記摘要」(以下「東京日記」)という資料を紹介します。  この資料は和綴じのノートで、中には原稿用紙が使われています。前半は操がまとめた松岡家や中川家の系譜、後半に「東京日記」が書かれています。ただしこの資料は操の直筆ではなく、後年に別人によって書き写されたものです。資料の間には柳田國男のメモが挟み込まれており、その内容から、原本は松岡家にとって重要な記録であるため、國男の指示で複写が作られたことがわかります。またメモの日付から、複写が作られたのは昭和28年(1953)頃と考えられます。  さて「東京日記」には、明治24年(1891)10月から同26年3月までの出来事が断続的に記されています。記述は簡易で、日付と、その日に起こった出来事や、訪問者の名前などが淡々と記してあります。もっとも、この日記は「摘要」(重要な部分を抜き出したもの)とあり、原本の日記が別にあったはずで、そちらにはもう少し詳細な記述があったのかもしれません。  このころ、操は長男の鼎を頼り、生まれ育った播磨を離れて、鼎が医院を開業した布川(現在の茨城県北相馬郡)で暮らしていました。この日記には上京した理由が明記されていませんが、明治24年に帝国大学医科大学を卒業した井上通泰が、大学医局で助手を務めるかたわら11月に医院を開業しており、これにあわせて上京したと考えられます。  10月9日に布川を出発、東京に到着した操は、通泰の下宿先である大橋氏のもとに身を寄せ、翌日から積極的に東京の各地を巡っています。10日は、写真師のもとを訪れて、写真撮影。次いで、江戸時代に多くの学者・文化人から信仰を集めていた本郷の湯島天神や、近隣の神田明神に参詣しています。15日には、上野を散策して、博物館(現在の東京国立博物館)や動物園(現在の上野動物園)を見学し、浅草金龍山(浅草寺)に参詣。29日には小石川植物園を見学するなど、各所を巡り歩いています。特に、博物館を気に入ったのか、別の日に再度博物館を訪れ、古代の石器や銅器、大嘗会の模型などを見学したとあります。  また「東京日記」には、通泰の医院開業について、これを報じている新聞社や掲載日が細かく記されています。11月2日に、通泰は下宿から開業する医院に転居しました。その際に祝いに訪れた人々の氏名や肩書きについても操はきちんと書き留めています。長男の鼎に次いで、通泰も立派な医師となり、開業する場に立ち会えたのは、父親にとってこの上ない喜びであったことでしょう。  『故郷七十年』では、晩年の操のことを「郷里を出てからは、だれか介添がなくては、世の中が一人あるきできないような状態であった。例えば上野の図書館へ本を読みに行くにしても、母から十銭だけもらって行くというような、子供みたいな人であった。」と語っています。他の子供たちの手記などを見ても、学問をするばかりで他のことは何も出来ない父親、というイメージがある操ですが、「東京日記」を読む限り、この頃の操は、東京見物をしたり、いろいろな人と面会したりと、東京滞在を楽しんでいたようです。 写真@=「東京渡遊中日記摘要」(個人蔵) 写真A=明治42年頃の博物館(『最新東京名所写真帖』、小島又市、一九〇九、国立国会図書館デジタルコレクションより)