広報ふくさき 令和5年(2023年)10月号 9ページ ---------- 大庄屋三木家よもやま話 第85話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 地域連携センター共同研究報告 『大庄屋三木家住宅の襖の下張文書@』 神戸大学大学院人文学研究科 特命講師 いのうえ まい  福崎町と神戸大学大学院人文学研究科地域連携センターでは、令和元年より大庄屋三木家住宅の襖の下張り文書の調査を進めています。同年に指定管理となり、現在は宿泊施設として活用されている三木家の副屋・離れには40枚近くの襖が使用されていました。この襖の下にあった下張りを、一枚一枚剥がしていき、何が書いてあるかを調査しています。  襖の下張りには、不要になった紙(反故紙)が用いられます。紙は、紙屑屋などから買い取る場合もありますが、三木家の場合は家に保管されていた文書を利用しています。大庄屋の職務に関するものや、人々と交わした書簡、絵の練習など、その内容は多岐にわたります。中には、三木家が大庄屋となる以前の、かなり古い時代の文書も使用されています。今後、これらの下張り文書の調査・分析を進めることで、三木家や福崎町域の歴史についての新たな発見が期待されます。  では、実際にどのような文書が発見されているのでしょうか。写真@は、三木家の離れの間仕切りに使用されていた襖の下張りです。襖は防音・防湿などのために、何層にも紙を貼り重ねています。 写真@ これは5層あった下張りのうちの3層目です。層によって下張りの貼り方は異なります。また使用される文書の種類も変わる場合があります。この襖の場合、3層目には「大庄屋甚右衛門」の名前が書かれたものが複数あり、ここから、甚右衛門を名乗り、かつ大庄屋を務めていた三代善政か、五代通庸の頃の文書が使用されていることがわかります。内容的には年貢米の割当や人足の手配、廻状(村々に用件を伝えるための書状)などが確認でき、大庄屋の職務の一端を知ることができます。ちなみに4層目は3層目と異なり、七代通深の頃までの手紙が中心となっています。  ではその中の一枚を紹介しましょう。写真Aは3層目の下張り文書のうちの一枚です。ここには、次のような内容が書かれています。 安田作兵衛の孫を名乗る人物が薬を売り歩き、村々で食事を請うこともあると聞いている。もし、この者がいたら、すぐに召し捉えて奉行に届け出なさい。  ここに登場する安田作兵衛ですが、江戸時代中期に書かれた『翁草』という随筆では、明智光秀の配下で、本能寺の変の際に信長に手傷を負わせた人物とあります。また、他の文献には、信長の近習である森蘭丸を討ち取ったとも記されています。山崎の戦いで明智光秀が討たれた後も生き延びて、複数の主君に仕えたとも、古傷の悪化を苦に自害したとも伝えられています。浮世絵の題材にもなっており、それなりに世間に名を知られていたようです。  おそらくこうした伝承を利用し、安田作兵衛の子孫を名乗って薬を売ったり、先祖の武勇伝を聞かせるからと食事の場を設けさせたりする輩が出没していたのでしょう。現在でも有名人などを名乗って金品をだまし取る「なりすまし詐欺」がありますが、同じような犯罪が江戸時代にもあったのですね。  大庄屋三木家住宅では、10月28日から、特別展示「ふすまの中から見る三木家」が開催されます。これまでの調査で発見された、さまざまな下張り文書を展示する予定です。是非足をお運び下さい。 写真A 写真=浮世絵に描かれた安田作兵衛(『太平記英勇伝』より「安田作兵衛国次」、東京都立図書館TOKYOアーカイブより)