広報ふくさき 令和5年(2023年)11月号 11ページ ---------- 三木家よもやま話 第86話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 神戸大学大学院人文学研究科 特命講師 いのうえ まい 地域連携センター共同研究報告『大庄屋三木家住宅の襖の下張文書A』 現代の日本は、住民基本台帳制度で居住関係を、戸籍制度で夫婦や親子、兄弟などの親族的関係を公証しています。これらの制度に基づいて、引っ越しなどで現住所を離れる際には、市区町村の役所で住民票を移す手続きが必要になります。また出生や死亡、婚姻や離婚などで戸籍の記載内容に変更があった場合も、役所への届け出が必要になります。そして役所では、これらの情報をもとに、人口の増減を把握したり、ワクチンの接種券を送付したり、住民税を徴収しています。 江戸時代もまた、人々の移動を管理するシステムがありました。今回は、その一端がわかる下張り文書を紹介しましょう。  この下張りは、三木家住宅の新座敷に使用されていた襖から発見されました。現在、4層目までの調査が終わっています。さまざまな文書が使われていますが、1層目は主に竪帳(一枚の紙を縦半分に折って、折り目でない方をこよりなどで綴じて作った帳面)、2層目・3層目は横帳(一枚の紙を横半分に折って、左側を綴じた帳面)の綴じを外したものが多く使われていました。  写真は1層目の下張り文書です。この文書は下地骨に直接貼り付けられていたため、その痕がくっきりと残っています。下地骨にサイズをあわせるためか文書の上部は切断されています。写真では見づらいですが、中心に折り目があり、両端に穴が空いていることから、もとは竪帳であったことがわかります。  さて、内容を見てみましょう。写真の文書を含め、この層には類似の内容を持つ文書が複数残っていました。いずれも女性の婚姻・離縁に関する文書です。  右側の文書は、吉田村(現福崎町南田原吉田)のぜんだゆうの息子きゅうべえに嫁いできた「いち」19歳の、左側は同じく吉田村のいちべえに嫁いだ「つね」41歳の「旦那寺」の変更に関するものです。右側は破損箇所が多いので、左側の文書を読んでみましょう。 吉田村いちべえの女房つね41歳は、山崎組西治村の●●(上部切断のため不読)の娘で、同村の蓮華寺が旦那寺でしたが、この度嫁ぎましたので、いちべえの旦那寺である山崎組西谷村の浄土真宗寺院じゅんきょうじに加えていただきたく、お願い申し上げます。  文書に記された年号は享保19年(1734)。作成はかわなべ組大庄屋とうえもんとなっています。三木家が辻川組の大庄屋役を命じられたのは元文2年(1737)以降です。大庄屋が管轄する組は、原則として大庄屋が居住する村の名前が使われます。三木家で初めて大庄屋に任ぜられた三代当主・よしまさ以前は、かわなべ村(現市川町)のとうえもんが大庄屋を務めていたようです。(組の名前が変わるだけで、組に含まれる村々は同じです。)  江戸幕府はキリスト教を厳しく取り締まり、人々をいずれかの寺に所属させました。そして、各村では村人がどの寺に所属しているのかを記載した「しゅうもんじんべつちょう」を作成していました。婚姻などで旦那寺が変わる場合には、現居住村の庄屋と嫁ぎ先の村の庄屋との間でやりとりが行われ、もとの村の人別帳から名前が除かれ、嫁ぎ先の村の人別帳に書き加えられました。実際のやりとりは「送りいっさつ」などと呼ばれる、一枚ものの文書によって行われます。今回発見された下張り文書は、そうした人別送りの控であったと考えられます。また、村と村とのやりとりとは別に、寺院間でも旦那寺変更の手続きが行われていました。  なお、この襖の下張り文書からは21件の旦那寺の変更届が確認されました。うち2件は「不縁(離婚)」に関するものです。また、文書にはそれぞれ女性の年齢が記されていますが、最年少は16歳、最年長は今回紹介する文書に登場する「つね」41歳。半数以上は江戸時代の平均初婚年齢である14歳から22歳を超えていました。江戸時代の離婚率と再婚率はかなり高かったようで、この文書に登場する女性たちも、再婚の女性が多かったのかもしれません。