広報ふくさき 令和6年(2024年)6月号 10ページ ---------- 大庄屋三木家よもやま話 第90話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 地域連携センター共同研究報告『大庄屋三木家住宅の襖の下張文書C』 神戸大学大学院人文学研究科 特命講師 いのうえ まい  江戸時代の三木家は、姫路藩の大庄屋として多くの職務を担っていました。今回は、三木家の襖下張りから発見された、大庄屋の職務に関する文書を紹介します。あわせて、江戸時代の食事を垣間見てみましょう。  写真の下張り文書は、三木家住宅離れの「おへや」と「新座敷」の間仕切であった襖の下張りに使用されていました。下張りは通常何層にも貼り重ねられており、層によって様々な反故紙が用いられています。この文書が貼られていた層には、三木家が大庄屋として管轄する村々が役人に供した食事の献立の記録が多く用いられていました。  では文書の内容を見ていきましょう。最初に「献立」「東川辺村(現市川町)」と書かれ、次に閏11月28日から29日にかけて供された食事の献立が記されています。  末尾には「当村(東川辺村)の「御林」で、御用薪の伐採のため龍田傳右衛門殿がお泊まりになったので、(料理の)仕出しはこのようです」と書かれています。文書を作成したのは東川辺村の庄屋・藤兵衛で、「大庄屋所」に宛てて出されています。  ここに登場する龍田傳右衛門は、別の下張り文書に「御山方」とあり、姫路藩の所有する山林(御林)を管轄していた人物と考えられます。東川辺村のほか、 川村・田尻村・北野村・西小畑村などにも赴いています。このほか「横目(横目付=藩士の行動の監察役)」なども、各村々で食事を出されています。  どうやら姫路藩の役人が職務のため各村々を訪れた際には、役人に食事を出す必要があったようです。そして、村々では出した食事をとりまとめ、大庄屋に報告していました。このように、藩の役人の各村での動向、村の接待の把握も、大庄屋の職務の一つでした。  それではいったい、役人たちにはどのような食事が供されたのでしょうか。献立の中身を見てみると、 ○閏11月28日夕食 平皿(玉子ふわふわ・豆腐)、汁(カブ)、ご飯 ○29日朝食 豆腐田楽、汁(玉子・ナズナ)、ご飯 ○29日夕食 平皿(八はい豆腐)、汁(納豆・スズメ)、ご飯 とあります。  28日に出された「玉子ふわふわ」とは、江戸時代の料理本によく登場する料理です。寛永20年(1643)に刊行された『料理物語』という料理書に載るレシピには、玉子に、玉子の分量の三分の一ほどの出汁と「たまり」(味噌からとれる液体調味料)・「いりざけ」(酒に梅干しや鰹節などを入れて煮詰めたもの)を入れて、よく蒸す。などと書かれています。茶碗蒸しと似ているかも知れません。もっとも、料理書によっては、レシピが全く違うものもあるようで、このとき出された「玉子ふわふわ」がどのような料理であったのかはよくわかりません。  また、29日に出された味噌汁の具には、「なとう(納豆)」が使われています。納豆といえば関東という印象がありますが、当時は関西でもよく食べられていたようで、江戸時代の俳人・与謝蕪村は姫路の室津で「朝霧や室の揚屋の納豆汁」という句を詠んでいます。さらに「すゞめ」とも書かれているのですが、これはチュンチュンと鳴く雀のことと考えて良いのでしょうか・・・  このほかの献立が書かれた下張り文書を見てみると、平皿のおかずとしては、イモ・ナスビ・ゴボウ・トウフ・コンニャク・松茸などが出されています。これは煮物であったと考えられます。味噌汁の具には、ダイコンと菜(葉物野菜)が多く用いられていました。また確認されたのは一例だけですが、酒が出されることもあったようです。  この献立に関する文書を見る限り、役人たちは一泊二日でやってくることが多かったようです。各村の庄屋たちも、どのような食事を出すか、頭を悩ませていたのかもしれません。 写真=下張り文書