広報ふくさき 令和6年(2024年)7月号 11ページ ---------- 大庄屋三木家よもやま話 第91話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 地域連携センター共同研究報告『大庄屋三木家住宅の襖の下張文書D』 神戸大学大学院人文学研究科 特命講師 いのうえ まい  今も昔も、人が暮らしていくためにはお金が必要です。家族が生活するためには、食費や光熱費、住居費がかかります。自治会であれば、公民館の維持費や総会の会議費、秋祭りやスポーツ大会等への支出もあるでしょう。当然、税金も支払わなければなりません。  江戸時代の村々でも、年貢を納めるほかに、必要な経費がありました。一般的にこれを「村入用」といいます。今回は、三木家の襖下張文書から、村入用に関する文書を見てみましょう。  この下張り文書(写真@)は、離れの襖に使用されていたものです。中央に折れ線が入り、上半分は上から下に、下半分は下から上に向けて文字が書かれています。両端が破れているものが多く、綴じ穴が確認できないのですが、その形状から、折れ線に沿って横半分に折り、右端を綴じて帳面として使用する「横帳」と呼ばれる帳面であったと考えられます。同じ層には、天保7年(1836)1月の日付と「未万雑諸入用書上ヶ帳」などと書かれた、帳面の表紙らしきものが複数確認でき(写真A)、これらの綴じを外して下張りに使用したと考えられます。表紙にはそれぞれ村名が書かれており、村ごとに作成して三木家に保管されていたようです。  では、辻川村の文書を見ていきましょう。まず、上半分には入用費とその費目が記されています。そして下半分には、これらが「未年(天保6年)」の入用であること、「天保七年正月」の日付、そして、辻川組同村五人組頭惣代2名と庄屋の署名、押印があります。また、辻川村分のみ宛先が書かれており、そこには「新美甚左衛門様御役所」と見えます。新美甚左衛門は、三木家の別の文書によれば、文政12年(1829)の時点では辻川組付の代官を務めていたことがわかっています。  次に、費目を見てみましょう。この文書には、@札場敷、A御用米、B庄屋役米、C年中紙墨筆代、D御林番給、E惣山廻り、F神子宿米、G役元日記、H庄屋并ニ村中宿米、I歩給米、J所々御通行役人御先触役米、K年中夫役、という項目が書かれています。  @は、高札場(幕府や藩からの命令を板に書いて掲示する場所)の維持管理費と考えられます。高札場の維持管理は各村々が責任を負っていました。Aは、備蓄用の米のこと。Bは庄屋への手当米で、辻川村では三石が計上されていました。他の村では組頭(五人組頭)への手当を計上しているところもあります。またD・Eのように、姫路藩に材木を供給する林や山の見回り役への手当米も必要でした。このほかJのように、幕府や藩の役人が公用で通行する際の準備費用などもありました。  興味深いのは、Cの「年中紙墨筆代」です。江戸時代は年貢関係や土地の借用・売買、金銭の借用、藩からの命令、藩への願書、またGの役元日記など、あらゆる記録が文書として残されていました。辻川村が前年度に要した紙・墨・筆の代金は米四斗分。現代の値段に換算するのは難しいですが、事務経費としてそれなりの出費であったことは確かなようです。  また、辻川村以外の文書に書かれた費目を見てみると、池や井堰などの補修・維持管理費や、村の氏神への供料・修繕費、広峯神社(現姫路市)の祈祷料など、実に様々な出費が生じていたことがわかります。中には、「吉郎兵衛家出ニ付入用」などといった、その年限りの項目なども見られます。  こうした村ごとの入用をひとつひとつ見ていくことで、当時の村々がどのように運営されていたのかを知ることができるのです。 写真@=下張り文書@ 写真A=下張り文書A(帳面の表紙らしきもの)