広報ふくさき 令和6年(2024年)7月号 6ページ ---------- ヒューマンライツ イン 福崎町 障がい者差別のない世界へ 福崎東中学校2年(当時) まえだ みお  ニュース記事を見ている時、ある一つの記事に目が止まりました。それは、障がい者施設で十九人が殺害され、二十六人が重軽傷を負った事件です。犯人は、障がい者施設を襲った理由を問われて、こう答えていました。「障がい者は不幸しか作らない」「意思疎通が図れない障がい者は生きる意味がない」と。私は、この事件をきっかけに、障がいについて考えさせられました。  この記事を見た時、私は、被害を受けた方の家族の気持ちを考えてみました。きっと、自分の大切な人を障がい者というだけで差別され、理不尽な理由で憎まれ、殺され、怒りと悲しみでいっぱいだったと思います。さらにSNSでは、この事件に対して、犯人と同じような考えのコメントが何件もあったそうです。私はそんな人たちの考えに少しも共感することが出来ませんでした。なぜ障がいがある人が不要だというのか、なぜ障がいがあるだけで生きる理由を否定するのか分かりません。確かに、生活の中で不自由だと思うことは少なからずあると思うけど、障がい者になりたくてなっている人なんていないし、自分だって将来障がい者になり得るのだから、障がいを理由に冷遇したり、馬鹿にしたりするのは絶対にやってはいけないことだと思います。  私たちが当たり前のように過ごしている生活は、当たり前なんかじゃありません。何の不自由なく生きることができるのは、本当に奇跡だと思います。だからこそ、障がいがある人の手助けをすることが、人としての当然の役目ではないかと思います。  私は、もし自分が病気になったり、事故にあって怪我をしたりしたらどうなるかを考えてみました。手足が動かなくなった、目が見えなくなった、耳が聞こえなくなった、そうなったとき、不安でいっぱいになるだろうし、「自分は周りに迷惑をかけている」と自分を責めてしまうかもしれないなと思いました。しかし、そんなときにそばで支えてくれる人がいたら、ものすごく安心すると思います。少しでも、手伝ってくれたり、励ましてくれたりすれば、前を向ける気がします。だから、もしこの先、障がいがある人と関わるようなことがあれば、率先して手助けしようと思いました。  ここまで、障がいがある人には手を差し伸べなければならないという話をしましたが、それと逆に、私たちは、ハンディキャップを背負っていてもなお前進し続けている人たちから、多くのことを学んでいると思います。それを強く実感したのは、パラリンピックが開催された時です。パラリンピックは、元は第二次世界大戦で負傷した兵士たちのリハビリの一環として行われた大会だそうです。それが今では、世界中の人たちに、大きな感動と希望を与えてくれる場になっています。東京二〇二〇パラリンピックで日本は、計五一ものメダルを獲得しました。どんな状況下におかれても必死に食らいついて、目標を成し遂げる選手達は本当にすごいと思います。私もそんな選手達のように、毎日力強く生きていきたいと思いました。  このように、ハンディキャップを背負っていても、希望さえ持っていれば、自分の力を十分に発揮することができると思います。必死に生きている人を否定する権利など、誰にもありません。一人一人が人権について考え、行動することで、障がいの有無により差別されない社会をつくっていけるのではないでしょうか。 --------- ポスター作品 福崎小学校6年(当時)きたやま そうた 田原小学校3年(当時)ひろおか らら 高岡小学校4年(当時)おさき こと 福崎西中学校3年(当時)やまさき りのん ---------- 人権標語 それちがう ひととのちがい こせいだよ  福崎小学校2年(当時)うちはし りの だいじょうぶ? その言葉が 変える未来 田原小学校6年(当時)うつみ あらた くらべない 一人ずつが 主人公  八千種小学校6年(当時)なかやす たいよう 大丈夫? そのひと言で 変わる未来 福崎東中学校2年(当時)ごとう たくみ