広報ふくさき 令和6年(2024年)8月号 8ページ ---------- 松岡五兄弟 まつおか みさお 第77話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 松岡國男少年の旅@ 神戸大学大学院人文学研究科 特命講師 いのうえ まい  柳田國男は生涯にわたって日本全国を旅し、各地に残された風俗や伝承を収集し、また、旅先で見聞きした出来事をまとめ、著作や新聞紙上などで発表しました。そうして、旅を通して得られた様々な知見を基に、民俗学という学問を切り開いていきました。柳田國男や民俗学について考えるとき、「旅」はとても重要なキーワードなのです。  そんな國男が、最初の大きな「旅」を経験したのは、明治20年(1887)8月のこと。この年の2月、帝国大学医科大学別課医学科を卒業した長兄のかなえが、ふかわ(現茨城県北相馬郡利根町)で医院を開業。経営が軌道に乗ってきたため、國男だけが一足早く鼎のもとに引き取られることになったのです。  しかし、まだ12歳の國男を一人で関東に行かせるわけにはいきません。当時帝国大学医科大学の学生であったもう一人の兄、みちやすが國男を迎えにきました。おそらく、すでに鼎は多忙であり、ちょうど夏期休業中であった通泰が、送迎役を引き受けたのでしょう。  この旅は國男にとって、とても印象深いものだったようです。最晩年の著作である『故郷七十年』には、70年以上前の旅で見聞きした光景が、まるでつい先日の出来事のように、鮮明に語られています。  國男と通泰は、明治20年8月に北条(現在の加西市北条町)を出発しました。まず、人力車に乗って神戸に向かったのです。明治に入り、東西をつなぐ鉄道は少しずつ延伸を続けていましたが、全線開通には至っていませんでした。上京するためには、神戸から船に乗るのが最善の方法でした。また、福崎と姫路をつなぐ播但鉄道(現在のJR播但線)は明治27年の開通。姫路と神戸をつなぐ山陽鉄道(現在のJR山陽本線)は明治21年の開通。まだ鉄道を使って神戸に行くことはできず、人力車がもっとも効率的な移動手段だったのです。  ちなみに、近年では観光地でしか見ることのなくなった人力車ですが、明治3年に東京で発明されたと言われています。『北条町誌』によれば、加西郡(現加西市)では明治13年ごろから使用されはじめ、明治18年頃には業者が増加してきたそうです。また、『故郷七十年』には、國男と弟たちが毎日のように、 川にあった人力車の中継所に通ったというエピソードが残っています。この時期は交通手段としての人力車が隆盛を極めた時期でもありました。  さて、北条を出発した國男は、人力車に揺られながら周囲の風景を眺めていました。そうした中で、とりわけ強く印象に残ったのは、明石のあたりで見た外国人の海水浴でした。  日本の海水浴は、幕末に西洋の医学を学んだ医師らによって広まったとされ、当時は娯楽ではなく医療行為として推奨されていました。一方、来日した欧米人を中心とする外国人が、蒸し暑い日本の夏を乗り切るために、海水浴を楽しんでいたといいます。(国立公文書館アジア歴史資料センターHP「知ってなるほど明治・大正・昭和初期の生活と文化『海水浴の誕生―余暇は湘南の海で―』」 明石の海水浴場の詳細はわかりませんが、明治26年発行の『須磨誌』という地誌によれば、明治14・15年頃に兵庫県によって須磨に公衆の海水浴場が設置されたと記されています。この頃から脚気患者が来ることが多かったと書かれているため、この海水浴場も病気の治療施設としての側面が強かったのではないかと思われます。  慶応3年(1867)に神戸が開港し、神戸には外国人が住み、働く場所となる居留地が作られました。彼らは「外国人遊歩規定」という規定のため、自由に行動できる範囲に制限がありました。神戸の場合は、神戸港から10里(約40q)と定められていました。幼い國男が見たのは、神戸にやってきた外国人たちが、ひとときの涼を求めて居留地を離れ、海水浴を楽しむ姿だったのかもしれません。 写真=大正頃の明石の浦(にしだ しげぞう 編『日本名勝旧蹟産業写真集』近畿地方の部、富田屋書店、大正7年・国立国会図書館デジタルコレクション)