広報ふくさき 令和6年(2024年)10月号 8ページ ---------- 松岡五兄弟 第78話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 松岡國男少年の旅A 神戸大学大学院人文学研究科 特命講師 いのうえ まい  『広報ふくさき』8月号では、12歳の松岡國男少年が初めて経験した旅を紹介しました。明治20年(1887)8月、長兄かなえの元に身を寄せるために、迎えに来た いのうえ みちやすと共に北条を発った國男は、人力車に揺られながら、明石で海水浴を楽しむ外国人を目撃しています。今回は、明石から東京までの旅路を紹介していきましょう。  神戸に着いたふたりは、神戸港に面した、西村旅館に投宿します。  幕末期、開国を迫られた江戸幕府は、安政5年(1858)にアメリカと日米修好通商条約を結び、函館・横浜・長崎・新潟・兵庫の5つの港を開港することになりました。兵庫(神戸)は、他の港より遅れ、慶応3年(1868)12月に開港。以降、国際港湾都市として発展していきます。そうした中で、明治9年に開業届を出したのが西村旅館でした。  西村旅館は、諸外国に開かれた神戸において、外国人船客の世話や、輸出入に関する税関の手続きなどを請け負っていました。また、外国人客だけでなく、国内の政治家・軍人・文化人なども、この旅館に止宿しています。(住田正一『海運千一夜物語』・西村貫一『西村旅館年譜』)  翌日、ふたりはメリケン波止場から「やましろ丸」という客船に乗り込みます。初めて大きな船に乗った國男は大興奮。その時の様子を、晩年になってから「船に乗りこんでも、船酔いどころかすべてが珍しく、よく眠れないほどで、立入禁止区域に入っては一等船室の西洋人をのぞき見したり、すべてが意外のことばかりであった。」(『故郷七十年』「故郷を離れた頃」)と語っています。  ちなみに、明治22年の資料によれば、西村旅館を含む周辺の主立った旅館の宿泊料金は、一等・二等・普通に分かれ、和食を選んだ場合、一等は75銭、普通は30銭でした。洋食の料金は和食の約6割増しです。また、横浜までの船料は、上等が16円、中等が10円、下等が4円となっています。(『山陽鉄道旅客案内』巻之一)。参考までに、明治18年の小学校補助員であった操の月給は6円でした。國男一人を連れて行くのにもかなりの出費であったことがわかります。  夜に横浜に着いたふたりは、今度は汽車に乗り込みました。國男にとっては初めての蒸気機関車だったはずですが、こちらについては二等車に乗ったこと以外は何も語っていません。國男が興味を持ったのは、同じ車両に乗っていた子供ふたりとその女中でした。こっそりと観察していると、女中が子供に「ビスケット」を渡そうとします。初めて聞く言葉に興味津々の國男でしたが、それは「掌に一つしか乗っからないような大きなもの」でした。明治以降、徐々に洋菓子の輸入や製造がはじまり、明治8年には、東京で国産のビスケットも製造されるようになっていました。  ようやく通泰の下宿に到着した國男は、翌朝早速街の様子を見るために外に出ました。そして「いまもその本郷の朝の景色が記憶に残っているが、まだ当時は電灯がなく、ガス灯の時代で、脚立もった人夫が点灯して回る時代であった。いまとはまるで違ったガス灯が夜明けのひっそりした街に点っている当時の光景が、私の東京風景の第一印象であった。」(『故郷七十年』「東京の印象」)という感想を残しています。  ほんの数日の間に経験した、辻川とも北条とも、全く異なる様々な風物は、國男少年に世界の広さを痛感させたことでしょう。そうして数日を東京で過ごした後、國男は布川(現茨城県北相馬郡)のかなえの元に引き取られ、また、新しい世界を知ることになるのです。 写真@=明治 33 年頃の神戸港(のぐち やすおき編『地理写真帖』内國之部第2帙国立国会図書館デジタルコレクション) 写真A=ガス灯のある風景(「日本橋夜」こばやし きよちか書『清親畫帖』国立国会図書館デジタルコレクション)