広報ふくさき 令和6年(2024年)12月号 10ページ ---------- 松岡五兄弟 やなぎた くにお 第80話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 柳田國男のヨーロッパの旅A 神戸大学大学院人文学研究科 特命助教 いのうえ まい   サルートン  先月の広報ふくさきでは、大正10年(1921)に国際連盟委任統治委員を委嘱された柳田國男が、ジュネーブで開かれた委員会に参加するために渡欧し、ヨーロッパ各地を旅したというお話をしました。海外に行くと、当然のことながら、言葉の問題があります。日常的な会話や読書は問題なくこなせても、仕事で専門的な話をしたり、議論をするためには、さらに高度な語学力が必要となります。  当時、国際連盟では英語とフランス語が使われていました。これらを母国語としていたり、幼い頃から学んでいた人々はともかく、そうでない人々は建設的な議論ができずに、苦労していたようです。後年、國男は当時の状況について、 われわれ日本人は機会があっても、どうも避けるようにしてしゃべるけいこをしたがらない傾きがある。連盟で私は日本の不平等な実例をみせつけられたが、この言葉さえ、心を打ちあけて話すことができるようになっていれば、かなりの難問題が解決せられるのにと痛感させられたことであった。 と回想しています。(『故郷七十年』「ジュネーヴの思い出」)  そんな國男がこの時期に没頭していたのが、人工言語の「エスペラント」でした。私たちが日ごろ使っている日本語や英語が自然発生的に生まれた言語(自然言語)であるのに対し、人工言語は人為的に作られた言語です。冒頭の「サルートン」は、エスペラントで「こんにちは」を意味する言葉です。  エスペラントは、当時ロシア領であったポーランド出身の、ザメンホフという医師によって作られました。その背景には、民族間の争いを共通の言語を用いることで収めたいという、平和を望む思いが込められています。また、文法や単語についても、国際語として多くの人が学びやすいように工夫がされています。  1887年(明治20年)に公表されたこの言語は、日本でも関心が寄せられ、明治39年には日本エスペラント協会が設立されています。また、同年には作家の ふたばてい しめい が、日本で最初のエスペラントの教科書である『世界語』を発表しています。  国際連盟で活動する中で、言葉の問題に苦しんでいた國男もまた、エスペラントの有用性に注目しました。『柳田國男全集』の「年譜」を見てみると、この時期の國男が積極的にエスペラントの普及に動いていたことがわかります。例えば、大正10年の渡欧時には、プラハで開催された第13回エスペラント世界大会に出席。また、ジュネーブに滞在する日本人たちに呼びかけて、日本帝国議会に対して、エスペラント学習の調査を行ってもらうための請願書を起草しています。また、遠野の ささき きぜん に宛てて、エスペラントを広める運動を起こす必要がある、などと書いた手紙を送っています。この中で國男は「欧羅巴人は依然として日本のことは何もしりもうさずそうろう」と記しています。日本のことを伝えるためにも、世界の人々と自由に話すことのできる可能性を持つエスペラントは、重要かつ習得すべき言語でした。  なお、その後 きぜん は熱心なエスペラント学習者となり、各地で普及のための講演や講習会などを開催しています。  この時期、国際連盟の中でもエスペラントを用いようとする動きがありましたが、それは叶いませんでした。結局、エスペラントはグローバル時代の主流言語になることはありませんでしたが、現在でも世界の各地にエスペラントを学び、話す人たちが活躍しています。  ジス ラ レヴィード(それでは、またお会いしましょう) 写真=はせがわ ふたばてい(ふたばてい しめい)『世界語:教科用独習用』(国立国会図書館デジタルコレクション)