広報ふくさき 令和7年(2025年)1月号 10ページ ----- ふくさきの身近な歴史 その1 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 福崎町と阪神・淡路大震災 神戸大学大学院人文学研究科 特命講師 いのうえ まい -----  平成7年(1995)1月17日午前5時46分、淡路島北部を震源とする兵庫県南部地震が発生しました。地震の規模はマグニチュード7・3、淡路・阪神間では最大震度7を記録。震源から遠く離れた福崎町でも、震度4を記録しています。  この地震により引き起こされた「阪神・淡路大震災」は、神戸市域を中心に、近畿一帯で建物の倒壊、火災、ライフラインの寸断、液状化現象など、甚大な被害をもたらしました。福崎町でも建造物3棟の一部損壊があったと記録されています(兵庫県ホームページ「阪神・淡路大震災の市町被害数値」  「あの日」から30年が経ちましたが、今でも明け方に不意に襲ってきた地響きと揺れ、そして、地震発生の直後から、ラジオやテレビが繰り返し伝える、被災地の様子を覚えておられる方もいらっしゃるでしょう。また、通勤や通学ができなくなったり、親戚や知人が被災された方もあったはずです。  福崎町内では幸い、震災による大きな被害はありませんでした。とはいえ、震災の影響が全く無かったわけではありません。当日は、播但線が夜まで動きませんでした。数日後、寸断された神戸線の迂回路として播但線が利用されることになり、多くの臨時列車が投入されました。国道312号線も、救援物資を積み込んだトラックがひっきりなしに行き交いました。  福崎町役場からも、給水車の派遣をはじめとして様々な支援が行われました。また、役場からだけでなく、福崎町民からも多くの支援物資が集まり、被災地に送られました。近年は阪神・淡路大震災やそれ以降に起こった様々な災害の経験から、発災時の様々な支援についてのしくみが整備されていますが、当時はまだ全てが手探りでした。  下の記事は平成7年3月の『広報ふくさき』です。ここには震災の発生後、町内から寄せられた救援物資や義援金へのお礼が掲載されています。寄せられた救援物資は布団毛布・衣類・日用雑貨・食料・ビニールシートなど、4トントラック11台分。義援金は、約920万円が集まりました。また、炊き出しボランティアへの参加、避難者を受け入れるための公営住宅についても記されています。  翌4月号では、巻頭で地震の特集が組まれ、地震が起こる仕組みや、日ごろの防災行動の重要性が説かれています。また別のページでは、被災地への車の乗り入れ自粛のお願いも掲載されています。  このように当時の状況や記録をみてみると、大きな被害こそなかったものの、福崎町もまた、様々な形で震災に関わっていたことがわかります。しかし、町内の被害が少なかったために、福崎町としての震災の記憶は、震災に関わった人々の中にのみ留まり、記録としては十分に残っていないように思われます。  阪神・淡路大震災では、これまで震災に関する様々な資料、例えば被災地を写した写真や、避難所に貼られていたチラシ、個人の手記、被災した家具などが、「震災資料」として収集、保全、活用されてきました。また、当時の記憶を記録する活動も継続して行われています。それでも30年という年月が流れる中で、世代交代が進み、震災を経験した世代が退職の時期を迎え、あるいは亡くなってしまうことで、その経験を直接次世代に伝えることが難しい時期がきています。  福崎町が経験した震災の記憶を後世に伝えるためにも、今のうちに当時のことを記録に残していく必要があります。 資料=『広報ふくさき』平成7年3月号(抜粋)