広報ふくさき 令和7年(2024年)3月号 10ページ ---------- 福崎町文化財だより(87) 2ページ目 ---------- 記念館だより 柳田國男 生誕150周年  今年は、日本民俗学を拓いたことで知られる柳田國男が福崎町で生まれて150年になる年です。  柳田國男は、明治8年(1875)7月31日に、福崎町西田原(当時の表記は飾磨県神東郡辻川村)にあった「日本一小さい家」こと柳田國男生家で、松岡みさお・たけ夫婦の6男松岡國男として生を受けました。  國男らの先祖は、江戸時代の初め頃に辻川にやって来たと伝えられています。國男の血筋は安永6年(1777)に没した かんしろう が分家したことに始まりました。國男らの祖母・松岡こつるは優れた詩才と学才を知られ、この地の大庄屋三木家当主と深い親交を結びました。その息子である國男らの父・みさお もまた才能を認められ、姫路の藩校への入学を許された後、地域の学業向上に貢献しました。  國男は10歳まで、現在記念館の西側に移築されている柳田國男 生家で育ちました。11歳から約1年間大庄屋三木家に預けられ、母の実家現加西市北条で過ごしたあと、長兄の松岡かなえ宅に身を寄せるため、明治20年8月に上京しました。以降、國男が故郷へ居を構えることはありませんでしたが、生涯を通じて9回ほど帰郷しています。  福崎町には現在も、柳田國男の研究の基礎となったサンプルが多く残されています。柳田國男生家は民俗学での住居研究の基本形となり、また、生家での経験が、「民俗学への志」のそもそもの発端となっています。駒ヶ岩の「ガタロ」の話が、全国に分布する河童の類型について関心を寄せるきっかけであり、後に『遠野物語』『妖怪談義』を生み出しました。野に生えるジュズダマに糸を通し、首飾りにして遊んだ経験は、沖縄でのタカラガイとの出会いによって、「日本人はどこから来たのか?」という遠大な疑問を解くカギの一つとなり、名著『海上の道』へとつながったのです。  記念館では、柳田國男の生誕150年を記念する催しを企画しています。  福崎町ならではの視点から、國男の功績をご紹介していきます。どうぞ、お楽しみに! 写真=柳田國男肖像(昭和37年) 写真=柳田國男 生家 ---------- 松岡えいきゅう画稿展 兄・國男とのつながり 4月5日(土曜日)から6月1日(日曜日)  令和7年度の松岡映丘画稿展は、柳田國男生誕150年にちなみ、2人の関係性を物語る作品を取り上げます。  國男は、辻川にあった「たてば」へ幼い映丘を連れて人力車に描かれた武者絵を見たり、錦絵を贈ったことなどが、輝夫を画家にしたきっかけかもしれないと考えていました。  國男は人物を基本のテーマとする大和絵の画風で、風景画を描くことを映丘に勧めていました。一方で映丘は、國男が関心を寄せていた昔話や古典にみられる人々をテーマとした作品を多く手掛けています。  本展では、映丘の画稿から、國男の研究と共通するテーマを扱った作品を展示します。 写真=『桃太郎の誕生』(柳田國男著:昭和8年) 写真=松岡映丘画稿《桃太郎》