広報ふくさき 令和7年(2025年)4月号 8ページ ---------- ヒューマンライツ イン 福崎町 ---------- 仲良く遊ぶ交流会 福崎小学校5年(当時) たぶち そうた  六月二十四日、福崎幼児園とサルビアこども園そして、福崎小学校五年生の合同で、七夕交流会をしました。この七夕交流会は幼児園の子と仲良くなるために、自分たちで企画したものです。  この七夕会でお店をすることになりました。お店には、かなり時間をかけました。準備するものがいっぱいで、休み時間も使ってがんばりました。でも、なぜか準備からめちゃくちゃ楽しくて、僕はうきうきしていました。うきうきは前日になると、さらに高まりました。  そして当日。朝、学校に来た人から体育館へ行き、楽しんで準備しました。そして、いよいよ七夕交流会が始まります。店番十五分、お店回り十五分と、けっこう長い時間をとったつもりでした。でも、楽しくて一瞬だった気がしました。店番の十五分、お店回りの十五分、合わせて三十分だけど、それも一瞬に感じました。  終わってから今思うと、楽しかったのは覚えているし、自分も相手も周りもハッピーなウィン・ウィン・ウィンができたと思います。けれど反省点もいくつかあると思いました。そしてその反省を次に生かしたいと思いました。何より、この七夕交流会でより幼児園児と仲良くなれた気もするし、幼児園児が楽しそうだったのが一番だったと思います。次は、夏休み明けの交流です。どんな交流にしようかな。 ---------- 球技大会を終えて 田原小学校5年(当時) やまだ ゆうせい  六月十五日に福崎町子ども会の球技大会がありました。球技大会は、男子はソフトボール、女子はバレーボールで戦います。コロナで数年できませんでしたが、去年から久しぶりに行われることになりました。  大会に参加することが決まると、四月くらいから毎週土曜日、日曜日の練習に参加しました。ボールを打つ練習や取る練習、投げる練習など、ソフトボールで必要なことを、かんとくやコーチが細かく教えてくれました。でもぼくは、投げることも、打つことも、取ることも下手だったので、平日、宿題が終わるとお母さんやお父さんに協力してもらいながら広場で練習しました。毎日の運動会の練習もあり、体はへとへとになりましたが、自主練習もあわせてがんばった結果、だんだんボールが取れるようになりました。  しかし、大会まであと二週間とせまったころ、ぼくは「ようれんきん」が原因で一週間入院することになってしまいました。入院が決まったその日は、点滴につながれた自分の左うでを見て、「ソフトボールの試合にもう出られないかも」と、不安になりました。早く退院して、体調を整えて、応えんだけでも行きたいと思いながら、ベッドの上でぼんやりと考える日が続きました。それでも、できることならば少しでも試合に出て、練習の成果を発きしてチームが勝てるようにがんばれたらいいのになと思っていました。  試合の一週間前に、ようやく退院することができました。しかし、お医者さんからは「試合に出ることはむずかしいかもしれない」 と、言われてしまいました。  いよいよ試合当日。ぼくは、退院してから試合までの一週間、安静にしていたので体力が少しずつもどってきていました。そして、試合中にかんとくから、 「代走いけるか。」 と聞かれたので、 「はい。」 と答えました。代走で出たぼくは、がんばって走り、さらに相手チームのミスもあり、やっとの思いで一点を取ることができました。ホームインし、チームのみんなからはく手でむかえられました。参加できて、本当によかったと心から思いました。  一生けん命に応えんをしてくれたお父さん、お母さんにがんばっている姿を見せることができてよかったです。今年は残念ながら入賞することができませんでした。来年は地区のみんなでソフトボールをもっともり上げて、入賞できるようにがんばりたいと思います。 ---------- ポスター作品 福崎小学校3年(当時)まつもと かける 福崎西中学校2年(当時)さとう はるか 福崎東中学校3年(当時)ながさわ まりな 田原小学校5年(当時)いくた りの ---------- 人権標語 みんなとはちがう とってもすてき 高岡小学校4年(当時)しばさき くうあ きずつけない 人の心は 大切なもの 八千種小学校4年(当時)ふじもと みつき 笑顔はね 唯一世界の 共通語 福崎西中学校2年(当時)ふじもと ゆうき 見て見ぬふり しないあなたに 金メダル 福崎東中学校2年(当時)おかもと ゆい