広報ふくさき 令和7年(2025年)6月号 10ページ ---------- 松岡五兄弟 柳田國男・松岡家 第82話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 柳田國男・松岡家と播磨の縁 姫路編 神戸大学大学院人文学研究科 特命講師 いのうえ まい  松岡家は、明治17年(1884)に辻川から北条(現・加西市北条町)に転居。明治22年には播磨を離れています。松岡兄弟が播磨で過ごした時間は長くはありませんでしたが、兄弟たちや、両親、祖父母の足跡は播磨の各地に残っています。  今回は、柳田國男・松岡家と姫路との関わりについて紹介していきます。  まず取り上げたいのは、あぼし の中川家です。中川家は川辺(現・市川町)に居住し、医師・学者を輩出した家で、ここから分家したのが あぼし中川家 です。同家の初代は なかがわ もんど という人物で、その子どもは後に辻川の松岡家の婿養子となりました。これが松岡兄弟の祖父・いたる です。また いたる の兄の子に なかがわ たんさい という人物がいます。医師・蘭学者であった おがた こうあん に師事し、自らもオランダ人から学ぶために長崎に行き、眼科に関する著書も残しています。  いたる は松岡家と折り合いが悪く、やがて離縁されて同家を去ります。とはいえ、松岡家と いたる の実家である あぼし中川家 の交流は続いており、いたる の息子で、松岡兄弟の父・みさお は、いとこの なかがわ たんさい と面会し、漢詩を詠んでいます。  その みさお ですが、将来有望な若者として、また優秀な学者として、姫路の各学問所で学んだり、教鞭を執ったりしています。みさお は幼い頃から漢籍を中心とした厳しい教育を受け、やがてその才が認められて、一介の農民の出身ながら、姫路藩家老の かわい すんおう が設立した学問所・じんじゅさんこう、次いで姫路藩の藩校・こうこどう で学ぶことを許されました。しかし優秀な成績を修めながらも、素行不良が重なり、退校処分となります。  失意の みさお はその後しばらく辻川で医業を営んでいましたが、文久3年(1863)に、姫路藩が設置した、町人の子弟を対象とした郷学、ゆうせんしゃ の舎監として迎えられることになり、再び姫路に移住しました。やがて ゆうせんしゃ も明治3年(1870)に閉校となり、その後は短い期間ながら、林田藩(現・姫路市林田町付近)の藩校・けいぎょうかん に迎えられています。  みさお の妻で、松岡兄弟の偉大な母である たけ も、結婚する前に数年間、姫路藩の たかす という家老の家に奉公に出ていたそうで(『故郷七十年』「母の兄妹」)、みさお と共に過ごした ゆうせんしゃ 時代も含めて、しばらく姫路で暮らした経験があるようです。  また、松岡兄弟のうち、長兄の松岡 かなえ は、明治の新しい教育制度のもとで正規の学校教員となるべく、飾磨県師範学校で学びました。  そして三男の たいぞう は、みさお が ゆうせんしゃ の舎監であった頃に生まれています。たいぞう は後に井上家の養子となり、井上 みちやす と名乗り、明治24年に帝国大学医科大学を卒業して眼科医となります。その後、明治26年から28年まで、姫路病院(現在の姫路赤十字病院)の副院長を務めています。  ちょうどこの頃、國男は第一高等学校の試験に合格しました。みちやす は國男に旅費を渡し、海軍兵学校の入学準備のために京都に下宿していた しずお も呼び寄せて、数日、みちやす の自宅で兄弟水入らずの時間を過ごしたそうです。(『故郷七十年』「姫路時代」)  ところで、國男自身は姫路で暮らした経験はありませんが、父の みさお などから姫路にまつわる様々な話を聞いていたといいます。その中のひとつに、姫路城の松の木に巣を作っていた、仲睦まじい鶴のつがいの悲しい別離の話がありました。病気となった雌鶴のため、雄鶴が朝鮮人参を手に入れて帰ってきたものの、長らく巣から離れていた間に雌鶴は死んでおり、雄鶴は悲痛な声で啼いた、という話です。この話を聞かされた國男は感動して歌を詠み、その歌が褒められたことがきっかけで、この話をもとに、自分で初めて物語を作ったと語っています(『故郷七十年』「最初の文章」)。  國男はこうした話をたくさん聞かされたといいます。國男自身はこれ以外の話を書き残していませんが、もしかしたら、國男が聞いた話の中には、現在には伝わっていない、姫路や姫路城にまつわる逸話があったのかもしれません。 写真=林田のけいぎょうかん