広報ふくさき 令和7年(2025年)7月号 10ページ ---------- 松岡五兄弟 柳田國男・松岡家 第83話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 柳田國男・松岡家と播磨の縁 加西編  神戸大学大学院人文学研究科 特命講師 いのうえ まい  今回は、松岡家の人々と北条(現・加西市北条町)との縁について紹介します。  北条と聞いてまず思い浮かぶのは、松岡兄弟の母・たけのことでしょう。たけは、北条のおしば家から松岡家に嫁ぎました。柳田國男の記憶によれば、かつて北条にはおしばという家が五、六軒あり、商売で繁盛した家と、医業を営んでいた家があって、たけの生家は後者であったといいます。(「母の兄弟」)  辻川から北条までの距離は約7.5キロ。歩けば2時間弱ほどです。たけの父で、兄弟たちの祖父にあたるおしば りしちは、しばしば煎餅を手土産に、辻川の松岡家を訪れていたようです。一方、松岡家のほうでも、兄からの送金を受け取るために、幼い國男が郵便局にお使いに遣られていたといいます。(「母の兄弟」「兄嫁の思い出」)当時、近隣で為替事務(現金以外の方法でお金を送る手段)を取り扱っていたのは、北条の郵便局だけだったのです。  その後、明治17年(1884)に、一家は辻川から北条に移り住みます。松岡兄弟の父・みさおは、明治になってからは、各地で教員や神官などの職に就いていました。北条でも1年ほどですが、北条小学校の補助員や訓導(教員)を務めており、柳田國男・松岡家記念館にはそのときの辞令書が残っています。  國男は、一家が北条に移住してからも、ひとり辻川の三木家に預けられたり、一足早く茨城県に住むかなえのもとに引き取られたりと、北条で暮らした時間はそう長くはありませんでした。それでも、「故郷のことを思い出すとき、私には生れた辻川よりも、むしろ北条の町の方に印象が強いというのも、やはり私がいくらか成長した後で住まった土地のせいであろうか。」(「匿名のこと」)と語っているように、國男にとっては思い出深い場所だったようです。  『故郷七十年』にも、いくつかの北条での思い出が語られています。  そのうちのひとつに、「私を民俗学の研究に導いた一つの動機」といえる出来事がありました。松岡家が北条に移住した頃、明治16年から18年にかけて、北条周辺はひどい飢饉に襲われました。飢えた人々を救うため、北条町の有力者たちが米を出し合い、粥を作って配る炊き出しが行われました。國男は炊き出しをもらいに行くことはありませんでしたが、周囲に気を遣ったたけによって、毎日粥を食べさせられたと言います。(「飢饉の体験」)  このほかにも母方の先祖に当たるおしば家に関する話題や、北条の家の家主の子で、こうきちといういたずらっ子が、國男の家にやってきていたずらをした、という話(「しょうぶん小学校のことなど」)、おしば家の「古いおばあさま」が建てたさけみでらの古いじゅうぎょくどうの話(「家の寿命」)などの思い出が語られています。また、友達もできたようで、北条出身の医師にして儒者であったこじま しょうぜんの子孫である兄弟と交友があったと語っています。(「丹波街道のこと」)  過ごした時間が短かったこともあってか、『故郷七十年』でも北条での思い出はそれほど多くは語られていません。とはいえ、こうしたいくつかのエピソードを見る限り、北条に暮らしていた頃も、國男は好奇心の赴くままに、北条の町を走り回っていたのではないでしょうか。  また、いのうえ みちやすは北条で暮らしたことはありませんでしたが、先に紹介したこじま しょうぜんや、自身の先祖にあたるおしば せいしょに関心を寄せ、ときに國男と協力しながら彼らの事跡を調べています。また、昭和4年の『加西郡誌』の刊行に際して、  いにしへの  鴨のみやつこ  その代より  さかえし国そ  西のこほりは という歌を寄せています。  北条で暮らしたのはわずかな時間でしたが、國男や松岡家の人々にとって、北条は、辻川に続く、もうひとつの故郷であったと言えるでしょう。 写真=松岡操の北条小学校勤務の辞令書