広報ふくさき 令和7年(2025年)8月号 10ページ ---------- 松岡五兄弟 やなぎたくにお・まつおかけ 第84話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 柳田國男・松岡家と生野の縁 神戸大学大学院人文学研究科 特命講師 いのうえ まい  今回は、松岡五兄弟と、いくの(現・朝来市生野町)との縁について紹介します。生野には、兄弟たちの祖父・松岡いたるが住んでいました。  松岡至は、あぼし(現・姫路市)の中川家に生まれ、その後、兄弟たちの祖母・こつるの夫となって松岡家に入りました。しかし、妻や義父である松岡さちゅうと折り合いが悪く、長男のみさおが生まれて間もなく、離縁して松岡家を出ることになりました。松岡家を出た至は生野へと移り住み、医業を営んでいたようですが、やがて生野にあったまつぎという家に入り、真継とうあんの名で知られるようになります。そして、真偽のほどは定かでないものの、幕末に起こった尊皇攘夷派の志士が起こした「生野の変」にも協力し、収束後に言葉巧みに言い逃れて罪を免れたといいます。  ここまでのエピソードは、柳田國男が『故郷七十年』で語っており、福崎でもよく知られています。  このほか、幕末から昭和にかけて生きた、但馬の学者・木村はつが明治36年(1903)に編纂した地誌である『朝来志』にも真継陶庵が紹介されています。前半は、先に述べたのと同じような、陶庵の出自や、生野に住むことになった経緯などが記されています。それに加えて、次のようなエピソードも紹介されています。  ひとつは、学問所のこと。江戸時代の生野には代官所が置かれ、そこには代官所の役人やその子弟たちが学ぶための学問所(れいたく館)が設置されていました。ところが慶応4年(1868)、大政奉還した後の生野周辺地域を支配するためにやってきた、薩摩藩士おりた としひでは、その学問所を閉鎖しようとしたのです。その際陶庵は、「才能のある人材を育てることは急務である、にもかかわらず学問所を廃止するとはどういうことか」と折田に詰め寄り、その意気に感心した折田は、学問所を廃止せず、「めいとく館」と名を改めるに止め、陶庵を教授としたというものです。  もうひとつは、息子の操についてのエピソードです。明治の初めごろ、操は「けんかい(意思が硬く、他人と相容れない)」な性格から、大いに困窮し、助けを父の陶庵に求めました。しかし陶庵は、もし今自分が操を助けてしまっては、亡くなった義父に申し訳ないし、女手一つで操を育てた小鶴の苦労が報われないといって、ついに助けることをしなかったというものです。  しかし、『故郷七十年』などによれば、操が父親に会いに行こうとしたのは明治以前のことで、姫路藩の学問所である「こうこ堂」に在籍していたころとされています。  『朝来志』が載せるエピソードがどこまで真実であるかは定かではありません。ただ、真継陶庵であれば、こうした行動をとるだろうという認識が、人々の間にあったことは確かなようです。そして、幼いころに離ればなれになったとはいえ、操にとって陶庵は敬愛すべき父であったのでしょう。  ともかく、陶庵は松岡家と縁を切り、『朝来志』の記述を信じるならば、自分から松岡家と接点を持つことはなかったようです。しかし、陶庵の孫である兄弟たちは、陶庵のことを祖父と慕い、故郷辻川に帰る際には、しばしば生野のほんぎょうじにある陶庵の墓にも詣でました。  柳田國男は、明治26年に帰郷した際に、弟のしずおと墓参りをしています。また、明治42年に北陸地方の視察に出かけた際にも生野を訪れています。このときは真継家の隣に住んでいた「浜屋」という宿屋の主の案内で墓に行き、「予は性質も容貌も共にこのおうなに似たるかと思はる。懐かしさに絶えず」と書き残してます。(『北国紀行』)  また一方で、真継陶庵や高祖父で「利かん気の性格」だったまつのすけのような、「松岡の家に伝わる一種の型」が一番濃く伝わっているのが静雄であるとも語っています。(「日蘭通交調査会」)  松岡兄弟にとって、真継陶庵は確かに松岡家の一員であり、陶庵の眠る生野の地は、辻川や北条と同様、兄弟たちにとって大切な場所だったのです。 写真=ほんぎょうじ