広報ふくさき 令和7年(2025年)10月号 9ページ ---------- 松岡五兄弟 第85話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 柳田國男・松岡家と神河の縁 神戸大学大学院人文学研究科 特命講師 いのうえ まい  今回は、松岡五兄弟と神河町域との関わりについて、お話ししたいと思います。  まず紹介しておきたいのは、柳田國男の生家です。  國男が「日本一小さい家」と呼び、日本民俗学の出発点となったこの家は、『故郷七十年』によれば、明治7年(1874)頃に「あわがか福本あたり」(現・神河町)にあった老夫婦の家を買ってきたとされています。(「私の生家」)  そんなところにあった家を、どうやって辻川まで持ってきたの?と思うかもしれません。ですが、当時は新しく家を建てるよりも、古い家を解体して新しい場所に運んで立て直したり、「ひきや」といって、家をそのままの形で移動させることが一般的でした。  松岡家はこの家で10年あまりを過ごし、その後辻川から北条(現・加西市北条)に移住しました。その際、生家は売却され、カケアガリに移築されています。このことからも、当時は頻繁に民家の移築が行われていたことがわかります。  また、粟賀・福本周辺は、國男や松岡兄弟ゆかりの人物の出身地でもあります。  ひとりは、井上みちやすの最初の歌の師であるくにとみ しげひこです。くにとみは元福本藩士の学者で(ながい さなえ『いのうえ みちやす』)「維新から明治にかけての播州の代表的な歌人」(『故郷七十年』「父の歌など」)でした。明治維新後は上京して私塾を開いており、みちやすが大学予備門(東京大学に入学する者に対して予備教育を行う機関)に入学するために上京してからしばらく、作歌の指導をしていたようです。  もうひとりは、鉄道技術者のまつもと そういちろうです。  そういちろうはあわがの出身で、明治3年に大垣藩(現・岐阜県)士としてアメリカに留学し、土木工学を学びました。帰国後は官僚として活躍し、鉄道庁(鉄道に関する諸業務を管轄する機関)に入庁した後は、全国の鉄道敷設に尽力しました。  國男が幼い頃には、郷土の「立志伝中の人」(若い頃に苦労を重ねて成功した人)として荘一郎の話を聞かされたそうです。また、大学生のときには、友人たちとそういちろうのもとを訪ね、留学前夜に皆でちょんまげを切ったときの思い出話を聞いたこともあったようです。(「同郷の人々」)  また、そういちろうの息子で、法学者であったまつもと じょうじという人物がいます。國男とは高等中学(後の第一高等学校)の同級生でした。  國男とじょうじは非常に仲が良かったようで、「同郷同級の親友」(『故郷七十年拾遺』「再び文学界のこと」)と言い、また「じょうじ君はじつにいい友達で、かなりいやなことも遠慮なくいい合えるような間柄であった」とまで語っています。(「寄宿舎生活の有 難味」)  すでに松本家は東京に籍を移していたようで、厳密にはじょうじは播磨の出身ではないのですが、父のそういちろうが播磨出身ということで、國男はじょうじを同郷の親友と見做していたようです。  そんなふたりが旅行に出かけたことがありました。誘ったのはじょうじのほうで、旅行先は和歌山県。旅の目的は、みなかた くまぐすに会うことでした。  ところが、東京からわざわざやってきたのに、くまぐすはなかなかふたりに会ってくれません。ようやく顔を合わせたときには酔っ払っており、しかも烝治を見て「こいつの親爺は知っている。松本そういちろうで、いつなぐったことがある」というようなことを言い出したのだとか。それを聞いたじょうじは、ただ苦笑いしていたそうです。(「みなかた くまぐす先生のこと」)  ちなみに、國男はこれを明治44年春の出来事として語っていますが、くまぐすの日記や、國男やくまぐすと交流のあった編集者・おか しげおの回想録によれば、実際は大正2年(1913)の年末のことであったようです。  福本・あわがは姫路から生野に向かう街道沿いにありますが、鉄道(播但線)からは離れており、國男がこの地を実際に訪れたことがあるかどうかはわかりません。それでも親友との思い出とともに、福本・あわがの地名は、國男の記憶に深く残っていたようです。 写真=柳田國男生家