広報ふくさき 令和7年(2025年)11月号 11ページ ---------- 福崎町文化財だより(88) 1ページ目 ---------- 柳田國男・松岡家記念館だより 福崎町名誉町民第一号 柳田國男生誕150年 生誕の地・福崎町  今年は、日本民俗学の創設者であり、文化勲章受章者、福崎町名誉町民第一号の柳田國男が現在の福崎町辻川で生まれて150年になる記念の年です。  柳田國男は明治8年(1875)7月31日に、儒者で医者の松岡操(約斎)を父とする、8人兄弟の6男「松岡國男」として誕生しました。國男の生家は、現在辻川山の鈴ノ森神社東側に移築・保存されています。この家は、四畳半二間・三畳二間の田の字型の民家で、後に國男が全国の民家を見る際に「民家の基本形」として念頭に置いていたとされる重要な資料でもあります。しかし、この家に7人が居住する生活は、母たけと長兄の妻との不和を招き、一家がこの町を離れる遠因となりました。この経験から、日常生活の小さな問題について考えることが、いずれは社会の大きな問題を解決する力になると考えた國男は後に「この家の小ささ、という運命から、私の民俗学への志も源を発した」と述懐しています。  松岡家が北条に移住したあと、國男は明治18年頃の一年間、辻川の大庄屋三木家に預けられました。この三木家9代当主せつじとの交友は生涯続いていくことになります。 民俗学への道  明治20年(1887)に関東へ移った後、次兄井上通泰の手引きで森 外と出会い、歌人松浦萩坪に師事、田山花袋や島崎藤村らと交流しました。しかし両親の死をきっかけとして、「飢饉の撲滅」を目指して農政学を志すようになり、東京帝国大学を卒業して柳田家に入り「柳田國男」となって農商務省へ入ります。官僚として日本各地を視察する傍ら『遠野物語』などの出版を通して民俗学への先鞭をつけていきました。その後貴族院書記官長を務めましたが、大正8年(1919)に官を下り、朝日新聞社に客員として入ると、國男は更に様々な地域を見聞し、紀行文や新聞を通して多くの人々へ、地方への着目を促していきます。また、大正10年には国際連盟委任統治委員会委員としてスイスへ赴きました。 「日本民俗学の父」  帰国後の國男は、民俗学を体系的に解説した本を次々と発表し、「民間伝承の会」や「民俗学研究所」を発足するほか、学校教育の教科書作成に携わるなど、日本民俗学の確立や教育の発展に力を注ぎました。  その功績をたたえられ、昭和26年(1951)には文化勲章を受章し、昭和37年(1962)3月には、福崎町が「福崎町名誉町民条例」で制定した「公共の福祉を増進し、又は文化の進展に貢献し、その功績が卓絶で、世の敬仰に値すると認められた者」の第一号として、名誉町民の称号を贈られています。同年の8月8日に世を去りましたが、國男の遺した膨大な著作は、現在もなお多くの人々に親しまれています。 写真=柳田國男肖像写真(昭和37年) イラスト=柳田國男生家間取り図