広報ふくさき 令和7年(2025年)11月号 13ページ ---------- 柳田國男・松岡家 第86話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 柳田國男・松岡家と多可郡の縁 神戸大学大学院人文学研究科 特命講師 いのうえ まい  今回は、柳田國男・松岡家と多可郡との縁についてのお話です。 松岡五兄弟の父・松岡操は、明治時代に入ってから林田藩(現・姫路市林田町周辺)の藩校・敬業館の教授や、龍野(現・たつの市)の更化学校の教員を経て、田原村(現・福崎町西田原)の明徳小学校の二等教員を務めていました。しかし明治9年(1876)に体調不良のために明徳小学校の教職を辞職しています。  ところが明治10年、操は今度は教員ではなく、多可郡的場村(現・多可郡多可町加美区)の郷社・荒田神社の祠官(神社の祭祀祈祷に従事する神職)となります。 もともと松岡家は、加治谷にある妙徳山神積寺の檀家でした。また操の母・小鶴は地蔵を信仰しており、辻川の堰溝に地蔵堂を建立しています。しかし操は、明治7年に小鶴が亡くなってすぐに「家の仏壇を片づけ、仏具類をみな市川へ流してしまった」そうです(「父の死と自作のノリト」)。國男が物心ついたころには、葬式も神道で行っており、家にはまだ新しい神棚や神具があったそうです。  どのような経緯で、操が教員とは畑違いの神職となったのかは定かではありません。ただ、操が尊敬していた本居宣長や平田篤胤などの国学者たちは、仏教や儒教の影響を受けない古来の神道の復活を提唱していました。このため彼らの学問に接したことで、神道に傾倒し、また神職を務められるだけの知識を持っていたのではないかと考えられます。 操は、祠官となった翌年には「教導職試補」という役職にも任じられています。教導職とは「三条の教則」(敬神愛国・天理人道・皇上奉戴朝旨遵守)に則って、寺社などで説教をし、神道を国教として浸透させるために設置された役職です。  こうした祠官・教導職といった神道に関わる仕事に就いていた一方で、操は多可郡にあった必中小学校の教員も努めています。  明治5年に「学制」が発布され、江戸時代とは異なる新たな教育制度がはじまり、各地に次々と学校が作られていました。しかし学校を作っても、生徒を教える教員の数は十分ではありませんでした。複数の学校で教員を務めた経験のある操の存在は、必中小学校にとっても貴重であったと思われます。  荒田神社の祠官と教員を兼任することは、操が望んだことなのか、学校から望まれたことなのかはわかりません。ただ、この時期、まだ鼎は師範学校の生徒でした。通泰が井上家への養子となる話が進んでいたとはいえ、國男はまだ幼く、妻・たけは静雄を身ごもっていました。郷社の祠官の俸給は「人民の信仰に任せ」(明治6年2月22日太政官布告第67号)られており、教導職は無給でした。一家の暮らしのために、操は兼任せざるを得なかったのかもしれません。  しかし結局、明治12年1月に、操は荒田神社の祠官を辞職しています。おそらく学校の教員も同時期に辞めたものと思われます。  後年、柳田國男は荒田神社を訪れ、「宿の主人に、「私の親は松岡といって、今から十何年前にここの神主をしていたことがある」といったら、いろいろ親切にしてくれたのは嬉しかった」と述懐しています(「播州人のユーモア」)。 写真=任命書(荒田神社祠官) 写真=任命書(教導職試補)