広報ふくさき 令和7年(2025年)12月号 10ページ ---------- 松岡五兄弟 やなぎた くにお・まつおかけ 第87話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 柳田國男・松岡家と市川との縁 神戸大学大学院人文学研究科 特命講師 いのうえ まい    柳田國男・松岡家と播磨各地との縁。今回は、市川町域に関するお話です。  まずは國男がまだ幼かったころのこと。松岡家の生計は父・操が教員などをして支え ていましたが、収入は十分ではなく、一家は困窮していました。当時は、口減らしのた めに、子どもを小僧として寺に預けるということが、しばしば行われていました。國男 は幼いころから記憶力に優れていたようで、近隣のいくつかの寺院から、小僧として貰 い受けたいという話があったそうです。その一つが瀬加(現・市川町上瀬加・下瀬加)にある寺院でした。國男はその寺の名前を明記していません。ただ「住職は怖い顔をしていた」とだけ語っています(「兄嫁の思い出」)。  このとき國男を貰い受けようとした寺院なのか、別の寺院かはわかりませんが、國男 自身も二、三度、瀬加にある寺院に行ったことがあると語っています(「播州人のユーモア」)。  また、辻川の若者たちが、春先に肥料にするための若木を採りに、瀬加に行っていた という思い出も語っており(「田原という地名」)、瀬加は國男にとって比較的身近な場所だったようです。  もう一つ、柳田國男や松岡家を語る上ではずせないのが、川辺(現・市川町西川辺)の中川家です。國男は『故郷七十年』のなかで「中川・井上・松岡三家の関係」と題して、三家の関係を紹介しています。これによれば、中川家は丹波に出自を持ち、川辺に移り住んで、学者や医者を輩出していたといいます。  その中の一人、なかがわ かげよし はあぼしで開業し、その子・いたるは後に松岡こつるの婿となっています。二人の間に生まれた子が、松岡五兄弟の父・松岡みさおです。一説によれば、こつるも中川家からの養子といわれています。  一方、いたるの姉は、川辺中川家に嫁ぎました。生まれた男子の一人は、吉田村(現・福崎町南田原吉田)の井上家の養子となりました。これが、井上みちやすの養父・せきへいです。松岡操と井上せきへいは従弟の間柄でした。  中川家との関係は、松岡兄弟の代にも引き継がれました。せきへいの甥で、兄弟にとっては又従兄弟にあたる、中川きょうじろうという人物がいます。きょうじろうは医者となるべく上京しましたが、結局医者にはならず、専門書の代筆やドイツ医学書の翻訳を請け負ったり、文芸雑誌『文学界』の発行所を引き受けたりしていたそうです(「『文学界』への寄稿」)。『故郷七十年』には、ほかにも多くの恭次郎との思い出が語られており、日ごろから細やかな交流があったことをうかがわせます。  もう一人、市川町域の出身者として、『故郷七十年』に名前が出ているのが、屋形(現・市川町屋形)出身の法制史学者・ないとう きちのすけです。  このきちのすけが東大の学生であったころ、河童についての伝承や名称を収集していた國男に、明石の河童は海にいると話し、その名称を「カムロ」「カワカムロ」というと教えてくれたそうです。ただ、それ以降、明石の人に聞いてみても、きちのすけの話を裏付ける証拠は得られなかった、とも語っています(「明石のカワカムロ」)。  なお、大正3年(1914)に出版された、『山島民譚集(一)』「河童駒引」には、「播州明石ノ海岸ナドニテハ今日「ガタロ」ト云フ物ハ河童ニハ非ズシテ鮫ノ事ナリト云フ〔内藤吉之助君談〕」として、きちのすけから提供された情報が記されています。  ちなみにきちのすけの父親はきゅうざぶろうといい、屋形の大地主で、彼もまた國男を「大変世話してくれた」(「明石のカワカムロ」)そうです。 写真=松岡家・中川家系図(令和5年度秋季企画展図録『松岡操・たけ展』より)