広報ふくさき 令和8年(2026年)1月号 10ページ ---------- 松岡五兄弟 やなぎた くにお・まつおかけ 第88話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 柳田國男・松岡家と辻川出身の人々 神戸大学大学院人文学研究科 特命講師 いのうえ まい ----------  今回は、松岡兄弟と同様に辻川出身で、故郷を離れて活躍した人々について紹介していきます。  一人目は、北海道に渡り木材業で財を成した まつおか げんのすけ です。げんのすけは明治6年(1873)の生まれ。辻川で暮らしていた頃は、農業の傍ら線香の製造・販売に従事していましたが、父の死後、明治21年に大阪の洋物商に奉公に出て、明治24年に北海道に渡りました。以降、北海道の各地で農業や諸商売に従事。やがて木材業や製材業の将来性に注目し、昭和元年(1926)には旭川を拠点として造材・製材所を経営するようになります。木材業が成功し、巨万の富を得た源之助は、旭川の有力者としてさまざまな 役職を兼任する一方、財産を惜しみなく寄付しました。寄付先は北海道に限らず、昭和10年には故郷の田原村尋常小学校講堂建築費として2万円あまりを寄付しています。(山崎有信『旭川市功労者伝』、松岡秀隆『松岡源之助傅』)  柳田國男は『故郷七十年拾遺』で源之助のことを「従兄」と紹介していますが、父のみさおに兄弟はなく、國男の記憶違いではないかと思われます。二人の関係についても具体的なことはよくわかっていません。ただ、三木家には、昭和8年に北海道を旅行していた國男が、三木 せつじ に宛てた葉書が残っています。そこには「先日ハ旭川にて松岡源之助君にあひ申候五十何年ぶりのよし申候少年の時の話をいたし候」としたためられていました。  げんのすけと國男、せつじは、いずれも辻川で生まれ育ちましたが、育った環境は全く異なります。とはいえ、年も近く、3人ともしょうぶん小学校に通っており、当然、互いのことは知っていたでしょう。五十年ぶりの再会で、げんのすけと國男はどんな「少年の時の話」をしたのでしょうか。そして國男は、どのような気持ちで、拙二に葉書を送ったのでしょうか。  もう一人、福崎町内でもあまり知られていませんが、辻川出身の医師で くすだ けんぞう という人物がいます。  くすだ けんぞう は墓石の碑文によれば、文久元年(1861)に辻川の まつおか えいじろう の四男として生まれました。明治元年に にぶの の楠田家の養子となり、同10年に「兵庫県医学校」(兵庫県神戸医学校を指すと思われます。ただし、けんぞう が入学した頃は、同校は「医学伝習所」と呼ばれていました。)に入学。卒業後は淡路で開業していましたが、その後上京し、産婦人科学者の さくらい いくじろう の病院で働くようになり、数年後、日本橋浜町に自身の病院を設立するに至ります。  楠田病院では通常の産科・婦人科に加え、産婆を養成するための「東京高等産婆学校」(後に高等産婆養成所と改称)が設けられていました。また、日本産婆学協会を発足し、『産婆学雑誌』を創刊するなど、熱心に産婆教育に取り組んでいました。『最新産科婦学』『不妊症論』等の著述をはじめ、編著や訳書も多く残しています。  しかし けんぞう は、明治42年に脳出血により急逝しました。49歳でした。  井上みちやす は明治23年に帝国大学医科大学を卒業し、大学助手を務める傍ら医院を開業しています。松岡家に残る資料には、開業祝いに訪れた人々の名が記されており、そこに くすだ けんぞう の名が見えます。  また、くすだ けんぞう の墓が東京のやなか墓地にあります。墓石の裏面には、井上みちやす の知人で、漢詩人の たかしま ちょうすけ が撰文、書家の おかやま たかかげ が揮毫した碑文が刻まれています。その末尾には、みちやす と くすだ けんぞう が「姻戚」(結婚等を通じてできた、血のつながっていない親類)であることから、高島・岡山が依頼されて碑文を作成したとあります。  高島・岡山の両人は松岡兄弟の父・みさお の墓碑にも関わっており、それと同等の扱いを依頼するあたり、井上みちやす の くすだ けんぞう に対する思いを垣間見ることができます。 写真=三木拙二宛柳田國男葉書 三木家蔵 写真=東京・やなか墓地にある楠田謙蔵の墓