広報ふくさき 令和8年(2026年)3月号 11ページ ---------- 福崎町文化財だより(89) 3ページ目 ---------- 松岡五兄弟 柳田國男・松岡家 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 柳田國男・松岡家と播磨の縁 國男の神崎郡嫌い 神戸大学大学院人文学研究科 特命講師 いのうえ まい  江戸時代は家柄や身分によって出世が左右される時代でした。しかし明治になってそれまでの身分制度が廃止されました。誰もが自らの才覚と努力によって出世することが可能になり、学問はそのための有効な手段の一つでした。  松岡五兄弟は、こうした日本が大きな転換期を迎えた時期に生まれ、父から授けられた学問に支えられながら学校を優秀な成績で卒業し、それぞれが進んだ分野の第一人者となりました。彼らは播磨の誇りであり、立身出世を目指す若者たちの憧れでした。  そうした中で、昭和2年(1927)に福崎村出身の岸上敬治が『市川名鑑』という本を上梓します。これは志ある農村の青年たちの立身出世に資するために、同郷出身の成功者の人物誌をまとめたものです。神崎郡出身者を中心に、神戸・大阪・東京などに在住する39名の経歴を紹介し、可能な限り肖像写真や筆跡、ときには本人からの寄稿を掲載しています。  松岡五兄弟からは、井上通泰・柳田國男・松岡映丘の3人が紹介されています。うち、井上通泰は人物紹介だけでなく、三上参次とともに題字を担当したほか、岸上敬治の依頼に応えて、少年たちのために直筆で歌をしたためています。松岡映丘についても経歴だけでなく、口絵に大正15年に発表したばかりの作品「みぐしあげ」の写真が掲載されています。  柳田國男もまた「我が神崎郡出身人物として最も誇るべく偉人なる名士」として紹介されています。前半では、東京帝国大学法学科卒業であること、官僚としての華々しい経歴、官を辞した後、東京朝日新聞において流暢な文体をもって社会文化の発展に努めたことなどが、美辞麗句を用いて記されています。  ところが後半に入ると、岸上敬治は突然、読者たちに訓戒を垂れはじめます。  岸上は國男の経歴に感銘を受け、読者のために文章の寄稿を依頼しました。しかしその依頼は一通の葉書によって謝絶されます。快く引き受けてくれると思っていた岸上は驚いて、國男に近しい人にその理由を尋ねました。すると次のような返事が返ってきたのです。  柳田國男はもともと人情に厚く世話好きで、神崎郡出身者に頼られたときにはよく世話をしていた。にも関わらず、それらの同郷者の多くが親切を無にしたばかりか、多大な迷惑をかけた。このために「神崎郡と云へば身震いするほど嫌な感じを催して、一切郷里の為めに生半可な親切はしない」と決心した、と。  岸上は、これは大変に不名誉なことであると同時に、後に続く若者たちの将来も左右する問題である。先達の親切を無にした者は大いに反省し、後に続く者は、自身の失敗が出身地の迷惑となることをよくわきまえ、神崎郡の青年は世話のしがいがあると喜ばれるようにならなければならないと述べ、どのような激励の文章よりも教訓になるだろうと、國男から届いた寄稿謝絶の葉書を掲載しています。  國男と神崎郡出身者との間に何があったのか。詳しいことはわかりません。ただ、國男は在京の播磨出身者を中心に結成された「播州会」にも、他の兄弟が名を連ねているにも関わらず参加していません。また、大正12年(1923)ころに辻川の名士が還暦祝いで揮毫を求めた際も、祝辞とも思えぬ歌を寄せています。このことも、神崎郡嫌いと無関係ではないのかもしれません。  晩年の國男は、若者たちに対して何かと世話を焼き、こと学問については熱心に相談に乗ってくれたそうです。一方、就職の斡旋や金銭の無心のように自分の都合で物事を頼んだ際には、ひどく怒ったといいます。(千葉徳爾『福崎と柳田國男』)。また、政治に関わった兄・井上通泰の取り巻きに苦言を呈したこともありました。(「次兄の逸話」)。自己の努力を怠り、他者の地位に擦り寄ったり、利用しようとする人々を、國男は軽蔑していたのです。  『故郷七十年』にはそうした恨み言はひと言も書かれていません。ただ國男がいたずらに自分を利用されるのを嫌っていたことは、柳田國男を顕彰する町として、心に留めておくべきではないでしょうか。 写真=『市川名鑑』