広報ふくさき 令和8年(2026年)6月号 10ページ ---------- 松岡五兄弟 柳田國男・松岡家 第89話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 松岡かなえ と 井上みちやす 医師としての二人 神戸大学大学院人文学研究科 特命講師 いのうえ まい  松岡五兄弟のうち、松岡かなえと井上みちやすは医師の道へ進みました。かなえは東京大学医学部別課、みちやすは帝国大学医科大学に学んでいます。一見、違う大学のようにみえますが、いずれも現在の東京大学医学部の前身です。二人が入学したのは、明治時代に始まった新しい教育制度が整備されつつある時期で、東京大学もしばしば名称変更や組織改編が行われていました。  もっとも、同じ医学部とはいえ二人が学んだ内容は異なります。かなえが入学したのは「別課」です。これは、江戸時代までの東洋医学を中心とした医療から、西洋医学(日本はドイツ医学を導入)への転換を進めるために設置された、臨床医の速成養成課程です。正規の課程(本課)ではドイツ語で行われる講義が、日本語で行われ、本来5年の修業年数が4年に短縮されました。卒業しても「医学士」の称号は授与されませんでしたが、数少ない西洋医学を学んだ医師として各地で活躍しました。かなえも、ふかわ(現・茨木県北相馬郡)や ふさ(現・千葉県我孫子市)で医院を開業しています。  一方、みちやすが入学したころには「別課」は廃止されていました。みちやすは正規の教育課程を修め、眼科の専門医として、研究・治療・後身の育成を担いました。卒業後は帝国大学医学部の助手や、兵庫県立姫路病院(現・姫路赤十字病院)副院長、第三高等学校医学部(現・岡山大学医学部)眼科教授などを歴任しています。なお、みちやすも後に大学を辞して医院を開業しています。  松岡家の兄弟たちは、しばしば兄弟間で協力して調査をしたり、事業を起こしていますが、この二人が医師として協力して何かを行ったというような事例は、今のところ確認できていません。あるとすれば、かなえが近隣の医師たちと結成した「常総有志医学研究会」の総会において、みちやすが招待講師として「眼科に用いる賦形薬について」という講話をしたことがわかっている程度です。(しなだ せいこ「明治・大正期の常総地方医師の活動」)  とはいえ、かなえとみちやすが互いの仕事に不干渉だったとも思えません。  みちやすは明治36年(1903)に『トラホーム物語』を発表しています。トラホームとは、ハエなどが媒介する細菌によって引き起こされる目の病気です。感染力が強く、繰り返し感染すると失明することもありました。日本国内に広く蔓延し、特に学校などでは集団感染を引き起こすこともありました。戦後になって抗菌薬が発見・開発されるまでは有効な治療方法はなく、感染予防と対処療法しかなすすべがありませんでした。先の著書によれば、姫路時代に県立姫路中学校の生徒を調査したところ、約3割の生徒が、その後、岡山で治療した患者の約4割がトラホームに罹患していたとのことです。  なお余談ですが、五兄弟の末弟・松岡えいきゅうが最初に師事したのは、日本画家のはしもとがほうでした。はしもとがほうとえいきゅうをつなげたのはみちやすですが、これは橋本一家がトラホームに罹患し、みちやすの診察を受けたのがきっかけだったとか。(ほその まさのぶ「松岡えいきゅうとその系譜」)  当時は今よりも衛生環境が悪く、衛生観念も希薄で、かつ農村部などでは貧困のために十分な栄養を摂れない人も多く暮らしていました。そうした状況下で、人々に予防の重要性を説き、衛生教育を施すのは、地域の臨床医の重要な役目でした。  かなえは眼科医ではありませんでしたが、ふかわやふさにもトラホームの患者がおり(えびはら そうさく『トラホーム退治策』)、罹患した患者が来院することもあったでしょう。ときにはみちやすに助言を求めることもあったかもしれません。  かなえ自身も、公衆衛生に関する様々な事業に取り組んでいます。大正時代に学校医を嘱託されていた頃には、子供たちの寄生虫検査や栄養状態の検査を実施しています。また、伝染病予防費を寄付するなど、地域医療の中心人物として活躍していたようです。 写真=『トラホーム物語』右は同書掲載の治療器具の広告 (国会図書館デジタルコレクション)