広報ふくさき 令和8年(2026年)7月号 9ページ ---------- 松岡五兄弟 柳田國男・松岡家 第90話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 松岡かなえと井上みちやす 兄と弟 神戸大学大学院人文学研究科 特命講師 いのうえ まい  柳田國男は『故郷七十年』のなかで、「長兄(かなえ)と井上の兄(みちやす)とが相談して、他のことは大きい兄がする代りに、私の学校へ行く学資だけは次兄の方で出すと決めて」いたと語っています。(「二兄の心遣い」)。  みちやすは幼い頃に井上家の養子となっています。とはいえ松岡家と縁が切れることはなく、先の話のように、かなえと協力して3人の弟たちを援助していました。年の離れた弟たちからすれば、一足先に世に出た二人の兄はとても頼りになる存在だったでしょう。  ところで、そんなみちやすも若かりし日に、兄に助けてもらったことがあります。話の内容から養家の家業である医師となるため上京し、大学予備門(東京大学の予備教育課程)で学んでいたころのことと思われます。  学業に身が入らなかったみちやすは、図書館に入り浸っては医学以外の図書、特に幼いころから興味関心のあった史学の書物を読みふけっていました。それが高じて、ついには医学を捨てて史学を学ぼうと考えるほどでした。  ところが、このことが郷里の井上家に知られてしまったのです。怒った養父・せきへいは、こちらも医師となるべく東京大学医学部別課に在籍していた鼎に手紙を送り「医学以外のことは全て辞めさせるように」と伝えました。このときかなえがとりなしてくれたことによって、みちやすは医学のほか、歌を作ることと柔術の稽古だけは許されたそうです。(「井上通泰集・後記」『現代短歌全集』所収)  その後、かなえが卒業して茨城県で医院を開業したことで「監督の弛んだ」とみちやすは書き記しています。また、この時期にかなえが辻川の三木家に宛てて送った葉書には「井上子(みちやす)」とともに外出したなどと書かれているものがあります。医学生時代のかなえは、自身も勉学に励む傍ら、他家の養子となったとはいえ、実の弟であるみちやすのことを気にかけていたようです。  みちやすもまた、兄を頼りにしていました。みちやすが残した文章には時折、かなえが登場します。  例えば、母方の先祖である おしばせいしょ について調べていた時には、布佐にある松岡家所蔵の資料を送ってもらったほか、母方の祖父から聞いた話を教えてもらっています。(井上みちやす「おしばせいしょ」)  一方で、兄を助けることもありました。かなえが地域のために布佐の各家庭に呼びかけて「布佐文庫」を設立した際には、みちやすも図書を寄贈しています。  また、かなえが布佐町長を務めていた折、利根川に橋を架けることになりました。橋の名をつけたのはみちやすでした。もっとも、みちやすは茨城県と千葉県の県境であるために「境(サカイ)橋」と名付けたものの、この地域の発音の混同で「栄(サカエ)橋」に なってしまったのだとか。(「長兄の境涯」)。  ところで大正8年(1919)に刊行された『東葛飾郡案内』に、布佐町の医師として、松岡かなえが紹介されています。同書では、かなえが千葉県医師会長・東葛飾郡医師会長を務めていることに加え、おうたどころよりうど 井上みちやす、貴族院書記官長柳田國男、海軍大佐松岡静雄、松岡映丘画伯が弟であることも併せて紹介されています。これに加えて、真偽のほどは定かではありませんが、次のような逸話が紹介されています。  ある日、かなえとみちやすが列車に乗り合わせていたときのこと、かなえが「みちやす」と呼びかけました。当時、みちやすは新聞にもしばしば取り上げられるような著名人でしたから、呼び捨てにされるのを聞いて、周囲は驚きました。しかしかなえは平然として「みちやすまだ修養がたらん、今少しな・・・」と続け、みちやすは押し黙りました。そしてかなえは隣を見て人々の様子に気づいたのか「これは俺の舎弟じゃ」と言ったそうです。(『東葛飾郡案内』)  かなえとみちやすは、松岡家・井上家の将来を担って東京に出ました。そして職を得て後は、体の弱い父に代わり、力を合わせて弟たちを支えました。そんな二人の間には、弟たちとの関係とはまた異なる形で、困難な時期を乗り越えた兄弟の絆があったのかもしれません。 写真=現在のさかえ橋(昭和46年に架け替えられたもの)