広報ふくさき 令和8年(2026年)8月号 8ページ ---------- 松岡五兄弟 まつおか かなえ・いのうえ みちやす 第91話 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう 松岡かなえと井上みちやす 『松岡こつる女史遺稿』の編纂 神戸大学大学院人文学研究科 特命講師 いのうえ まい  松岡五兄弟の祖母・こつるは、夫・至と離縁した後、女性ながら独学で学問に励み、一人息子のみさおを教育しました。その甲斐あって、操は加古郡安田(現・加古川市尾上町)の医師・うめたに さもんの私塾に入門し、次いで じんじゅさんこう、姫路藩の藩校・こうこ堂へと栄転します。  辻川に残っていた小鶴は、この間、我が子を叱咤激励する漢文の手紙を送り続けました。そして、それらの手紙を整理し、じじょ(著者自身が序文を書くこと)を付して「なんぼうへん」という詩文集を編んでいます。  さらに安政2年(1855)、操は「南望篇」とこれ以外の小鶴の詩文・手紙を清書し、識語(書籍を書写・入手した由来などを記すこと)を加え「小鶴女史詩稿」としてまとめています。  小鶴は明治6年(1873)に、操は同29年に亡くなりました。そこから年月が流れ、小鶴の50回忌にあたる大正11年(1922)にあわせて、兄弟たちは「小鶴女史詩稿」に、父・操の墓誌とかなえの識語を付した『松岡小鶴女史遺稿』を編集し、活版で印刷・製本して300部を頒布しました。この『遺稿』は、柳田國男・松岡家記念館のほか、いくつかの機関に収蔵されています。  松岡家にはこのときの校正原稿が残されています。通常、印刷物を作成するときには、原稿を用意し、これを「製版」し、必要に応じて加筆・修正する「校正」を経て出来上がります。(「広報ふくさき」も同じ工程で作られています)。つまり、校正原稿が残っているということは、『遺稿』が作られた過程がわかるということです。  松岡家に残っていたのは、@完成稿(印刷に回す前の最終の原稿)A原稿用紙に書かれた直筆原稿(「南望篇」の自序など)、B見本組(レイアウトを確認するために作成する組版)と目次など直筆原稿との綴、C初校(前半・後半各一部)、D小鶴肖像図版、です。これらは一括で、通泰が鼎に宛てた封筒に納められていました。  校正指示の筆跡を見る限り、編集を主に担ったのは、みちやすのようです。通泰は『万葉集新考』をはじめ、多くの著作を残しており、編集作業に慣れていたのでしょう。  これらの資料から作業手順を推測すると、まず「小鶴女史詩稿」や直筆原稿を元に、印刷会社が見本組を作成し、ここから文字数や行数などを調整してレイアウトを確定させます。これを受けて、印刷会社が版を組んで初校を作成。返ってきた初校を松岡家側で確認し、誤字脱字や活字のサイズの変更などを修正してもらう、という流れであったようです。  Aを見てみると、「南望篇」の自序を写した直筆原稿には朱筆で返り点が付されています。「小鶴女史詩稿」の自序は白文(漢文の原文)だったので、読みやすくするために、こうした変更を加えたのでしょう。また、Cの初校は修正箇所が多かったようで、たくさんの修正指示が書き入れられています。冒頭に「要二校」とあるため、初校を修正した原稿(二校)も作られたはずですが、現在のところ、二校は確認されていません。  鼎と通泰が生まれた頃、まだ小鶴は健在で、二人は祖母から基本的な読み書きを教わっていたようです。そんな二人にとって、この編集作業は他の兄弟たちよりも思い入れの深いものだったのではないでしょうか。  なお、当時國男は「浪人をして旅行ばかりしていた」ために、この企画には加わっていなかったようです。(「南望篇」)。國男が官僚を辞したのは大正8年のこと。翌年に朝日新聞社客員、その翌年には国際連盟委員統治委員として渡欧しています。何かと慌ただしい日々を送っていたために、編集に関わることをしなかったのでしょう。  ところで『遺稿』は、「きょうりんしゃ」が組版・印刷を手がけています。杏林舎はもともと とほうどうという医学書専門の出版社が開設した活版印刷所です。後に創業者の田中増蔵が、吐鳳堂とは別に しゅうせいどうを創業し、ここで医学書以外の書籍も取り扱うようになります。しゅうせい堂は、柳田國男の初期の著作『遠野物語』(自費出版分)、『いしがみ問答』などの印刷・販売を手がけていました。兄弟たちが『遺稿』の印刷を杏林舎に依頼した背景には、こうした繋がりも関係していたと考えられます。 写真=『松岡小鶴女史遺稿』の見本組