広報ふくさき 令和8年(2026年)10月号 10ページ ---------- 松岡五兄弟 第92話 まつおか かなえ 福崎の身近にある歴史を掘り起こそう まつおか かなえ の帰省 神戸大学大学院人文学研究科 特命講師 いのうえ まい  松岡五兄弟の長兄・かなえは医師となるために、22歳のときに上京しました。帝国医科大学を卒業後、請われて ふかわ(現・茨城県北相馬郡)で開業し、数年後には ふさ(現・千葉県我孫子市)に転居。戸籍も辻川から布佐に移して、この地で生涯を終えました。播磨で開業するには資金や土地が必要で、親戚も医師が多いため、鼎は当初から故郷に帰るつもりがなかったようだと、柳田國男は語っています。(「昌文小学校のことなど」)。  しかし、そんな鼎にも故郷に心残りがありました。先祖の眠る墓所のことです。父・みさお、母・たけは、布佐の勝蔵院に葬られましたが、松岡家初代・勘四郎から、祖母・こつるまでの先祖代々の墓、幼くして亡くなった3人の弟の墓は、故郷に残されたままでした。開業医という職業柄、長期間家を空けることが難しいとはいえ、松岡家の家長として、先祖の墓守を務められないことに忸怩たる思いを抱いていたようです。  大正9年(1920)、鼎は還暦を迎えました。人生の節目に思うところがあったのでしょうか、鼎は約40年ぶりに辻川に帰省しました。このとき、三木家に立ち寄って せつじ の歓待を受けたようで、三木家にはその礼状が残されています。書面には、1月8日に帰宅したとあるので、正月明けに訪問したのではないかと思われます。  礼状によれば、三木家に滞在中、鼎は先祖の墓の移転について、拙二と相談したようです。当初、松岡一族の墓は、田尻の円乗寺に祀られていました。柳田國男はこれらの墓について「私の考えもあったが、辻川の山の裏の みょうとくさん ごしんいん というお寺の中に、少しばかり地面を譲ってもらって、そこに全部まとめておまつりしてある。(中略)今では三木家でまつってもらっている」(「西所の松岡」)と語っています。それが、このときのことだったようです。  拙二は移転だけでなく、その後の墓守についても引き受けてくれたのでしょう。それがよほど嬉しかったのか、鼎は帰宅の途中、みちやす と國男のもとに立ち寄り、詳しく話を聞かせたそうです。そして弟たちからも改めて挨拶があるはず、と記しています。  これに関係する、通泰と國男の書簡が三木家に残されています。通泰からは1月8日付の礼状が届いています。文面には鼎が滞在中に様々なもてなしを受けたことを「ただ今当人より承り」とあり、鼎の話を聞き、すぐさま筆を執ったようです。  國男も長文の礼状をしたためています。滞在中の礼を述べるだけでなく、鼎が布佐に帰る途中で立ち寄って、詳しい話を聞いたこと、墓の移転について面倒も厭わず援助してくれることへの感謝、そして、老境に達した兄が常々墓のことだけは心配していたので、これでようやく気兼ねがなくなった、などといった内容が書き連ねられています。  先の『故郷七十年』の記述とも合わせれば、墓のことについて三木家に相談するよう持ち掛けたのは、國男だったのかもしれません。  その後、鼎は大正12年にも故郷に帰っています。このときは通泰が同行し、三木家のほか、いくの に眠る祖父・まつぎ とうあん の墓にも詣で、寺の住職から在りし日の陶庵の思い出を聞いたりしたようです。  鼎は家業のこともあり、長く帰省が叶いませんでした。しかし、兄弟の中で最も長く 川で暮らしていたのは鼎であり、それゆえに望郷の念は人一倍強かったでしょう。そんな中での40年ぶりの帰省。目に映る故郷の風景を、人々の話す播州弁を、鼎はどのように受け止めたのでしょうか。 写真=三木拙二宛松岡鼎書簡 大正9年1月14日(三木家蔵)